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KANDAルネッサンス 38号 (1996.07.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内23

「お玉が池のオフェリア」お玉の謎
——斉藤月岑一家・三代の夢「江戸名所図会」を巡って

中西隆紀

お玉と男がふたり
 東京の池というと上野不忍池が有名だが、神田にもその昔「お玉が池」という池があった。水辺の桜樹が生い繁るその下の水茶屋で、「お玉」という美しい女性が訪れる人に茶を振る舞っていたと伝説は伝えている。
 今は岩本町のビルの谷間に小さな「お玉稲荷」が残るのみで、池は影も形も見えない。
 そのお玉が、池に身を投げた。この事件以後人々は、桜が池と呼ばれていたこの池を、お玉が池と呼ぶようになったという。後世の書物の書き手は、落ちた椿を拾い、再び水を張って水盤に浮かべるように、その理由を語っている。ひとつは、おそらく老親の他身寄りなく、その養父の死を嘆き悲しみ我が身を池に投じたと言い、もうひとつは二人の男を前に「選ぶ」という行為がなんともやる瀬なく、自死を選ぶしかなかったのだと語っている。これは、『江戸名所図会』の編者であり、神田の名主でもあった斉藤月岑の父幸孝の文で、『江戸名所図会』の下書きともいえるものだ。
「品形もおなしさまなる男二人までそ、心をハ通ハせせる、されハせつなる方へと思へとも、いつれおとりまさりもあらさりけれハ、女思ひあつかひて、終に此池に身をなけて、底のみくつとなりぬ」
「こんな女性が、この世の中にはたしているのだろうか、二人の男に言い寄られて、どちらも選ばないというような女が…」と思った時に以前見た「ソフィーの選択」という映画を思い出した。ここに登場する母親は「二人の子供の内、一人を選ばなければ、二人共殺す」という実に過酷な「選択」を引き受けなければならなかった。

オフェリアとお玉の水辺周辺
 お玉のような伝説は他にも似たような例があって、むしろ、純真無垢な女性とはいかなるものかという、当時の人々の理想像の典型と見ることもできるだろう。
「所有や打算から無縁な、お玉のような女性はこの世の人とは考えられない」「これは単なる男性の願望であって、暗黒の物語の中でしか棲息しない微光の妖精を、祠に閉じこめてしまっただけだ」「水辺空間は、人の恋情をなぜ幻想に導くのか」などと考えているうちに、日本のお玉は泰西名画と重なりあって、ロンドンはテイト・ギャラリーにあるという「オフェリア」の絵をもう一度見たくなった。
 この絵を最初に見た時も今も、眼を誘って離さないそのその口と眼と指だ。
 花々に囲まれ、鳥が実をついばむ程にわずかに開かれたオフェリアの口許は、水面から浮き出て、もはや清らかな水の侵入さえも許さない。小川に人の気配なく、水の流れに見を委ねた木の葉に意思はなく、今川底に無数の砂つぶとなって安住の時をむかえている。
 この絵の救いは見開かれた眼にある。閉じられることなく、もはや「選択」することもなく、総てを流れに託した眼というものがここにあったのだ。

傷口と地霊
 オフェリアは周知のように、王子ハムレットの邪悪な言葉、父親の横死などが重なりあって、錯乱の上、小川で水死を遂げてしまうシェイクスピア悲劇の女主人公だ。
 お玉と同様、愛の成就を見ないままオフェリアは小川を木の葉のように流れていく。
 悲愴感に包まれた彼女の純情と、ロマンチストは語るのだが、逆のふしだらな女だと酷評する批評家もあって、ハムレットと同じようにその傷口は深かったに違いない。
 お玉の純情も真実はどうだったのか。
 お玉が池の茶屋と、神田明神横の茶屋ではその規模も違うだろうが、水茶屋というのは料理茶屋と違いアルコール類は出さなかったらしい。
「江戸名所図会」では伝説のお玉が美しい着物をまとい、茶釜を前に茶をたてている。
 酒類を置かず酌もしないから、茶屋の経営者はその分、腕によりをかけて美人を置いた。
 一方、器量良しの女とその親にとっては、身を売らなければならない吉原よりはと、水茶屋を考えたに違いない。しかし見目麗しい女に男が集い、さらに愛が人を縛って離さないということまで考えが到らなかったのは、これはもう地霊の仕業と考えるしかないではないか。

「お玉」伝説
「神田お玉が池」というと北辰一刀流・千葉周作の「千葉道場」を思い浮かべる人も多いだろう。地名からいって、池の畔で剣術の稽古をしていたと思う人がいてもちっとも不思議ではない。しかし当時、すでに池は影も形もなく、伝説の地名だけがひとり歩きしていた。池はどうも江戸中期にはもう埋められていたらしい。この松枝町辺は神田の中心でもあり、年々増加流入する都市住民にとってはここはもはや行楽の池どころではなくなっていたのだ。
 そうした様子を今知ることが出来るのは、江戸時代に発行された多くの地誌のおかげである。江戸時代は地誌の時代であるといわれる。それは裏を返せば、ガイドブックや地図を人々が求めていたということであり、そういう生活を江戸の庶民は楽しんでいた。
 お玉稲荷の社伝は、太田道灌の昔にまでたどり、道灌はこの池のほとりに弁天を祀り江戸城の鎮護としたといい、一人の農夫がその境内で女の赤子をひろって養父となる。この子の名前が「お玉」だ。
 ところが、『江戸砂子』では身を投げたお玉の霊はたたり、ばけもの屋敷になって、荒地となり、町家になって「年経ぬる故か、さしてたたりもなし」となる。
『江戸総鹿子』でも同様に、妖怪が年とともに何事もなくなって町家となる。
 しかしこの二書には、入水した後妖怪となったお玉の自殺理由が述べられていない。この問題を解決するために、『江戸砂子』から100年を経て『江戸名所図会』はかくも美しく、お玉の霊を妖怪から、怨むこともなければ「選ぶ」こともない清純な乙女として昇華せしめたのであった。

名主一家、三代の夢
 お玉が池から程遠からぬ所、今の淡路町近くに雉子町という町があった。
 先に紹介した『江戸名所図会』の作者はここで代々名主を務めていた斉藤月岑(斉藤市左衛門)という男である。さらに、お玉の自殺理由を述べた先の文章は彼のお父さんが書いたものであり、元をたどれば、その発端は月岑のお祖父さん斉藤幸雄に行き着く。
 つまり『江戸名所図会』は斉藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)三代が、三十年以上もかけて完成にこぎ着けた壮大な一家の夢の出版であったのだ。
 お祖父さんの時代には絵師がまだ決まっていなかったし、原稿も揃っていなかった。父がその後を受け継いだが、こころざし半ばで倒れてしまった。月岑がまだ15歳の頃である。弱冠17歳で一家の大事業を継ぐ決心をし、挿画も長谷川雪旦という良き絵師を得た。
 この神田の小さな名主邸に、有名な安藤広重が訪ねてきたことがある。
 広重というと、神田では紺屋町の染物が青い空にはためく絵を思い浮かべるが、そうした大胆な構図と色彩は後にゴッホなど印象派に大きな影響を与えた。
「良きお仕事をされていますなあ」などといいながら月岑と広重は、おそらく奥の間で情報を交換し合ったに違いない。
 出版仲間どうしのこんな親しい交際があったからかどうか、広重の描いた王子の狐の構図も『江戸名所図会』に負うところが大きいと分析する人もいる。

トポフィリア
 お玉が池にしろ王子の狐にしろ、客観的な地誌の裏に、夢幻の精神史である伝説や言い伝えが影のように付きまとうのは、とても自然なことなのだ。
 今はやりの言葉に「トポス(場所)」というのがあるが、場所というのは本当に不思議なものだ。昔、伊豆の三宅島に行った折、水辺近くまで下りていった小さな池も今は熔岩の下となり、もしかすると、新たな伝説が生まれるのを地下深くから望んでいるかもしれない。そういう意味ではトポスが発展して、トポフィリア(場所愛)などという造語が生まれるのも「お玉」的現実のひとつとしなければならないのだろう。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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