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神田資料室

KANDAルネッサンス 36号 (1996.01.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内21

神保町の土蔵にあった柔道の講道館——嘉納治五郎と幻のオリンピック

中西隆紀

氷川丸
 その船「氷川丸」は、カムチャッカ半島の南の碧海に巨体の影を落としながら、舳先を横浜に向けて波を割って進んでいた。
「何とか難関を切り抜けた。これで日本国民こぞって喜んでくれるに違いない」船中の小柄な一人の老人はディナーのスキヤキを少し口にしただけで、キャビンのベッドの白く柔らかな枕の事ばかりを考えていた。
 IOC委員日本代表嘉納治五郎。79歳。バンクーバー乗船時にはやや風邪ぎみで、オリンピックの東京大会招致を再確認という重責を果たして、本来なら心地よいデッキの上で凱旋の夢を紡いでいれば良いはずであった。帰国後は若い多くの後輩が東洋初のオリンピックに向けて、労を厭わず力を尽くしてくれるだろう。
「私の役目はひとまずこれで終わった」と独りごち老齢の自分に、がむしゃらだった若き日の姿が重なって、思わず洗面の鏡から眼を逸らすと丸窓を洗う白い波がそこにあった。

喪の凱旋
 人の一生は誕生と死以外は常に「ひとまず」といった区切りしか存在しない。「ひとまず終わった」こうして人はしばしの休息の時をもつ。ところが、多くの仕事をなしとげてきた治五郎の今回の波の上での休息は、誕生以前の揺り籠への回帰でしかなかった。
「嘉納治五郎翁、船上にて急逝す」昭和13年5月4日、訃報は船中から関係者に向けて打電された。
 翌日の各紙は「講道館の創始者——日本運動会の父」の死を大きく報じていた。
 しかし船はまだ洋上にあり、ようやく横浜港外にその姿を見せたのは6日の、陽も海に沈まんとする頃だった。埠頭に一瞬厳粛な空気が流れ、多くの関係者が見守る中、船は静かに着岸し、五輪旗で覆われた柩は6人の水夫の手に守られながらタラップを斜めに凱旋していった。
 翌日の新聞一面の見出しは次の様に書かれていた。「五輪旗哀し“喪の凱旋”」

105ポンド、200を倒す
 いまや世界の柔道と言われ、その創始者の死は各国にも伝えられ、ニューヨークのヘラルド・トリビューンは写真入りで、その昔、200ポンドの新聞記者をわずか105ポンドの嘉納が見事取って投げた武勇伝を添え、また他の記者は次の様に語った。
「嘉納翁がカイロ会議の使命を果しての帰途に死すとは、古代ギリシャにおいて戦線の勇士がマラトンの野まで必死となって走り続け、ギリシャ軍の勝利を報じて絶命した故事を思い起こさせるものがある」とやや感傷的に、マラソンの語源ともなった有名な故事になぞらえて報じた。
 嘉納が老体をおして国際オリンピック総会カイロ会議に首席代表として出席したのは、各国から疑惑の声が上がり、東京大会開催が危ぶまれていたからである。四面楚歌の中、再度、東京大会決定の勝利を得て、翌日には各国代表と共にピラミッドを参観、カメラを手にする治五郎の写真が、死後新聞に発表されたりもした。
 統率者を失った柔道界も「講道館はどこへ行く? 大分裂の危機に直面」などと騒がれたが、問題は柔道よりも日中戦争の拡大など国全体の政局が安定を欠いている事にあった。

幻のオリンピック
 名乗りを上げてからわずか5年で誘致に成功という離れ業を演じながら、嘉納死後、東京大会は中止に追い込まれる。第12回オリンピック東京大会が「幻のオリンピック」と言われる由縁である。
 先のヒットラーのベルリン大会(11回)が「ナチス・オリンピック」と言われ、著しく政治色を前面に表出した大会の後を受けて、日本の「挙国一致体制」が早くも各国から不快と疑惑の眼で見られていた。東京大会の決定についてはヒットラーの後押しも少なからず影響したと言われているが、その後日本も蘆溝橋事件から日中戦争へと戦禍は拡大しつつあり、最後の説得へと嘉納は赴いたのであった。
 「社会、天下国家が入ってくると、その瞬間から単なるスポーツじゃなくなる」と山川均は言う。嘉納はその対極にあり、皇紀神話に基づく紀元二千六百年にあわせて国家的行事として是非成功させたかったのだ。

「体協」初代会長
 嘉納の死後28年を経て、戦後、東洋初のオリンピック東京大会が実現し、新たに柔道が世界の檜舞台に登場する事になる。「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子バレーが優勝、柔道その他でも優勝が相次いだのはまだ記憶に新しいところだ。このアジア初の世紀のイベントの予算は当時で1兆円といわれた。
 現在、オリンピック等こうしたアマチュア・スポーツの元締めとなっているのが「体協」とよばれる日本体育協会である。この初代会長となったのが嘉納治五郎であった。明治44年の事である。現在協会は昭和39年に移転し代々木にあるが、元はお茶の水、聖橋のたもとにあった。現在の日立本社がある場所で、ここを「岸記念体育館」といった。岸とは岸清一のことで、嘉納引退後、日本スポーツ界の実力者と言われ、第2代会長をつとめた男である。

東大・学習院・講道館
 講道館から出発し世界へ進出した嘉納治五郎の晩年の行動半径は広いものがあるが、若き日の振り出しの舞台は神田を中心に円弧が描かれているように見える。
 初めて柔道を学んだのは治五郎18歳の時といわれる。当時神田にあった開成学校に通っていたが、学問だけでは何か満たされないものを感じていた。古来の柔術に興味を抱き、探し回ったあげく天神真楊流福田八之助に入門した。翌年同じく神田の東京大学に入学後、20歳の時にアメリカのグラント将軍が来日、渋沢栄一に招かれ飛鳥山で将軍を前に試合を披露した。八之助の後を受け師と仰いだのが磯正智であり、神田お玉ケ池に道場を開いたのを機にここに入門する。
 それから2年後、学生の身でありながら同じく神田錦町にあった学習院の教師を依頼されている。
 注目すべきはその翌年、講道館を創設した明治15年、治五郎23歳の年だ。この年の年譜を見ると、彼の活力の拠点がいったいどこにあるのか判らなくなる。
 治五郎自ら教師として教える場所を、四つも設定しているのだ。ひとつは下谷永昌寺内で始めた講道館(本堂の一部を道場とした)。二つめは同じく寺内の自宅で嘉納塾を開く。三つめが弘文館という学問所を神田に設立する。そして先の学習院教師と、まったく同時期に相次いで、なぜこれだけ手を広げなければならなかったのか。

柔能く剛を制す
 彼は雇われ教師を一生の生業と見做して事足れりといった男ではなかったということだろう。あくまで請われて学習院へ行っていたのであり、自らの教育への理念を学校経営という形で拡幅したい欲望を禁じることができなかった。
「己の力をもって世に施すをよいと考えた」との言葉は教育者の偽善や過信との誹りを吹き飛ばす程の自信に溢れている。明治人治五郎自らも語っているように、人に教えることが楽しかったのだ。その楽しさを他人に及ぼさずにはいられなかった。彼は教育の目的を知識の集積と考えていないのは勿論であるが、「いかに、決断し、実行するか」という方法論のほうにむしろ多大なる関心を寄せている。
 彼の言葉に添うならば「精力善用」するためには「道」の学が必要であり、柔術は柔道であらねばならなかった。「柔能く剛を制す」は体得されねばならなかったのだ。
 身体と頭脳、下谷の「講道館」と神田の「弘文館」は無くてはならぬ車の両輪であり、不即不離の関係であらねばならなかった。

神保町10畳敷の土蔵
 講道館を始めた翌年には、勤め先である学習院に近くて便利な神田今川小路に自宅を移し、これで両輪の拠点は神田に置かれたことになる。
 学問の弘文館は当時神田南神保町にあり、自宅が狭いのでここの土蔵を講道館の仮道場とした。
「其時に道場らしい道場でも建てて弟子をむかへたならば、まだしも世人の注意を惹いたであろうが、左様な訳には参らず、已むなく弘文館の附属土蔵、それも恐らく十畳敷位にすぎなかったらしい、其土蔵には、角のある柱が方方に露出して居る。その道場で稽古を励むものの中には、なかなかの荒武者も居る。力一杯あばれ廻る。其様なものを無遠慮に扱ひ、柱に打ちつけでもして怪我でもされたら、其人に気毒であるのみならず、弟子もなくならう」といった訳で、「その苦心は一通りではなかった」と語る。

ポツネンと待つ
 ところが怪我人が続発する程弟子は集まらなかった。寒気の厳しい時などじっと待っていることの方がつらい。「西郷四郎をさきに出しておいて、自分があとから出る。すると、西郷は凍りつく様な道場で、身に迫る寒さと戦ひながら、唯一人ポツネンとして来場者をまって居る」。そんな状態が続いた。
 その後講道館は麹町上二番町に20畳の道場を新築し、移っていったが、徐々に門弟を増やし、明治19年学習院教授兼教頭となった3年後、本郷区真砂町に道場を建てた頃には、入門者は1500人程に達していた。
 一方、学習院を依願退職した治五郎は、文部省からお茶の水の高等師範学校の校長に任命される。以後、校長を3回勤めている。
 八面六臂の活躍というべきだろうが、もう一つ日清戦争後増え続けていた清国からの留学生の問題はやはり神田周辺がその舞台だ。
 
中華料理と清国学生
 本屋が多いのは当たり前として、神田神保町周辺は、今はすこし少なくなったような気がするが、古くからの中華料理屋が比較的多かったように思う。これが明治時代に清国留学生と関係あるかどうかは、今少し調べをすすめてみなければ判らないが、中国の文豪魯迅が学生として来日した頃、神田周辺には清国からの留学生がかなりの数を占めていた頃があった。
 駿河台に住み文相兼外務大臣だった西園寺公望が清国公使から相談を受けたのは明治29年。「留学生を日本のしかるべき人に託したい」という要望に、西園寺は嘉納に話を持ちかけた。こうして誕生したのが宏文学院である。嘉納治五郎が経営し、当初は弘文学院といった。神田三崎町1丁目2番地に越したのは明治32年「亦楽書院」といった。その後牛込区西五軒町に移り、宏文学院と称し、学院内でも柔道を教えたりしている。

厨房の煙
 国粋主義的な当時の空気を色濃く反映しているとはいうものの、嘉納治五郎のアマチュア・スポーツと教育に関する多岐にわたる活動は現在でも少なからず影響を与え続けている。
 私はよく海が見たくなると第一に江ノ島に行く。その次が横浜だ。この山下公園の片隅に氷川丸が今は固定碇泊されて、動力を持たぬまま厨房の煙を吐き続ける観光船となっている。嘉納治五郎を知るまでは、亡くなった父が戦後、小さな麻袋にひと握りの塩と豆を抱えて、中支からの最後の引揚船として帰ってきた船として見ていたが、これからは行くたびに二人の老人の顔を思い出すであろう。父の話は私の生まれる1年前の話である。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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