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KANDAルネッサンス 35号 (1995.10.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内20

江戸川乱歩と小栗虫太郎の神田デビュー前夜

中西隆紀

ラジオ=音の水溜まり
 テレビがまだ銭湯か歯医者にしか無かった頃、ラジオと同じでそれは高所の貯金箱のように僕たちを見下ろしていた。もちろん背丈が日に日に変化している事さえ気が付かず、一日でも早く強者の仲間入りをしたいという浅知恵と自分の背丈の無力を比べていた頃だ。
 やがてテレビは各家庭に普及し、その特別指定のA席を子供が確保するに到った。映画館や劇場、そして昔の紙芝居や花火の桟敷でもそうだが、見て楽しむものにはなべてC席からA席に至る陣取合戦を避けて通ることはできない。
 音が支配するラジオにはそれが無かったような気がする。自分の気に入りの場所が箪笥の横ならばそれでよかった。語りをを乗せてテーマソングが斜め上の方からぽろぽろこぼれ落ち、それがある場所で水溜まりになっていて、そこで遊ぶも良し、無視するも良しといった自由な世界があったような気がする。そしてそれはいつも一人遊びを可能にした。

貼雑(はりまぜ)「少年探偵団」
 その双璧が「ひゃら〜り、ひゃらり〜こ」の「笛吹童子」と、「ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団」の「怪人二十面相」であり、その音が上から落ちてくると、水溜まりは魔界の迷宮となり、気が付いた時には暗闇に光りを求めて単身の彷徨が始まっていた。
「怪人二十面相」の作者江戸川乱歩の存在を知ったのはそれからしばらく。エドガー・アラン・ポーは思春期。そして乱歩がアラン・ポーをもじったと知った頃、「押絵と旅する男」を読み、そのダイナミックな構成に感激する。そしてさらに社会に出て2・3回躓いた頃にポーの詩「大烏」に襲われた。
 そうした縁がまだ切れていないようで、神田彷徨が始まり、この連載の題名を「神田貼雑独案内(かんだはりまぜひとりあんない)」としたのは乱歩の亡霊のしからしめる技かもしれない。
「独案内」は明治時代の学生の独習書によく使われた題名だが、「貼雑(はりまぜ)」は江戸川乱歩の備忘録「貼雑年譜」からの借り混ぜである。
 この「貼雑年譜」はその名の通りチラシや雑誌の切り抜きを随所に貼り込み、さらに詳細な乱歩自らの足跡を記した世にただ一つの限定本のことだ。

住居転々の図
 この中の一葉「東京市ニ於ケル住居転々ノ図」を見ると、学生時代早稲田近辺を転々とした後、本所、下谷、牛込の下町を経て、神田に止宿したのは大正11年6月の1か月間。同じ神田錦町の東岳館、向上館という下宿屋。「東岳」といい「向上」といいいかにも学生相手の下宿といった命名だが友人の下宿に居候していたらしい。ただなぜこの時期に1か月間だけ神田に住んだのか、おそらく仕事の都合でもあろうが、乱歩が東京生活に見切りをつけ、大阪の父の元へ転がり込む直前だけに興味深いものがある。
 江戸川乱歩は三重県出身、父の転職に伴い名古屋から朝鮮馬山を経て上京、早稲田大学に入学、卒業後職を転々とするのだが、この大学から神田錦町の1か月までの11年間に東京だけで20カ所を転々としているのは、並みではないし、一覧表にする価値は充分に認められるというものだ。

神田デビュー前夜
 この間は彼のデビュー作「二銭銅貨」をまだ執筆しておらず、神田から忽然と姿をくらまして筆をとったということになる。
 大正11年2月、日本工人倶楽部勤務のかたわらポマード製造会社支配人を兼務、池袋駅前に住む。同6月上旬か10日程神田「東岳館」、下旬20日程神田「向上館」に止宿後、退職して大阪へ赴き外守口町の父の家に妻子と共に身を寄せ、「二銭銅貨」「一枚の切符」を書き上げた。神田はまさに失業およびデビュー前夜であったのだ。
「探偵小説四十年」という自伝のなかで乱歩は、「二銭銅貨」と「一枚の切符」は「団子坂時代に大筋だけは出来ていた」と言っているので、東京試行錯誤時代に構想はすでにまとまっていて、過去を清算し作家となるべく神田神保町を歩き回っていたのかもしれない。

乱歩のチャルメラ
 その過去とは、正確には東京大阪試行錯誤時代なのだが、その職業遍歴を次のように語る。「その主なものを思い出してみると、三重県鳥羽造船所の事務員、団子坂で古本店自営、東京パックの編集、支那ソバ屋、東京市役所公吏、大阪時事新報記者、日本工人クラブ書記長、ポマード製造業支配人、大阪で弁護士事務所の手伝い、大阪毎日新聞広告部員」などだが、細かくはこの他に「鋭敏タイプライターの行商、寄席を借りてレコード音楽会の興行など、いろいろ風変わりなこともやっている。風変わりといえば古本屋で失敗して食うに食えなくなり、窮余の一策、僅か半月ばかりではあったが、深夜町から町をチャルメラを吹いて流して歩く支那ソバ屋をやったことが、その最たるものであろう。厳冬の深夜、チャルメラの歌口が、唇に凍りつく味というのは、また格別であった。」

月夜の晩
 この職業転々時代に、乱歩が注目していた作家がふたり。一人は谷崎潤一郎、一人はドストエフスキーだった。
 時は明治時代になるが、この潤一郎も神保町の北沢書店裏の路地に住み、「一夜明ければ大作家のバイロン」を夢見ていた無名の下積み時代が神田だ。こうしてみると一葉しかり、荷風しかり、また、漱石、鴎外などデビュー前夜の月夜の晩に神田で小石を積み上げていた作家は実に多い。
 こうしたポピュラーな大作家ばかりではなく、知る人ぞ知るといった作家もいる。乱歩も「探偵小説四十年」で紹介しているが、小栗虫太郎もその一人。彼と神田は他の作家と比べ土地に対する根の深さが違うといえるだろう。神田生まれであり、明神の山車の上でそっくりかえっていた少年時代の記憶を持つ。また、印刷所を経営したりしている。活字で商売する等、いかにも神田らしいのだが、経歴を見て驚いたのが、虫太郎は、私が以前訪れたことのある神田の「小田原屋」の血筋であったことだ。

神田の旧家=小田原屋
 神田多町は元やっちゃば(青果市場)があった所だけに、今でも多少残っているが、地上げ前には豪壮な梁と屋根瓦の日本家屋が、もやしのように見えるノッポビルをせせら笑っていた時期があった。それを痩せ我慢というには行政の努力を問題にせざるを得ないが、残念なことに数件が消えていった。
 その一軒に「小田原屋」があった、2階前面に掲げられた大看板は、いかにも大江戸を彷佛させ、店の中には赤い角樽(つのだる)が行儀良く並んでいたのを思い出す。それは小田原屋解体直前の取材であった。
 虫太郎の父はここで分家ながら小田原屋の支配人をしていたのだという。小栗虫太郎の「小栗」は本名で、小田原屋小栗家は350年以上も続いている神田の酒問屋の旧家であった。

小栗虫太郎の貼り混ぜ
 推理小説家小栗虫太郎の代表作としてよく知られているのが「黒死館殺人事件」である。著者自らは、主題をゲーテの「ファウスト」からとり、楽聖モーツアルトの埋葬から着想を得たと言っているが、誤謬を顧みず実に多くの素材を貼り混ぜてある。乱歩の「貼雑年譜」は正確な記憶を残すことに主意があったが、虫太郎の貼り混ぜは、むしろペダンティックな読者サービスが主眼だ。自らコレクションした知識を総動員して満艦飾に飾り立てた船だから、これを面白いと見るか、騒々しいと見るか意見の分かれるところである。虫太郎が鬼才と言われる所以だ。
 甲賀三郎は語る。「探偵小説界の怪物江戸川乱歩が出現して満十年、同じく怪物小栗虫太郎が出現した。(中略)両君ともに、その前身が何となく曖昧模糊としていて、文壇にデビュウするまでに、相当忍苦の年月があり、(中略)江戸川君が一流の粘り気のある名文で妖異の世界に引込んで行くのに反し、小栗君はむしろ晦渋と思われる一流の迫力のある文章で、妖異の世界へ引込んで行く。江戸川君のものを江戸時代の草双紙とすれば、小栗君のものは中欧中世期の草双紙である。」

骨董・図書館・碁・散歩
 小栗虫太郎、本名小栗栄次郎は明治34年神田旅籠町で生まれた。神田錬成小学校から京華中学校を経て、樋口電機商会に入社。大正11年、乱歩が神田から大阪へ消えた同じ年に四海堂印刷所を設立、閉鎖するまでの4年間に「紅殻駱駝の秘密」など数篇を書く。閉鎖後は、骨董類の売り喰い生活が始まり、図書館、碁会所、散歩と執筆に明け暮れた。デビューしたのは昭和8年、「新青年」に発表した「完全犯罪」であった。翌年には「黒死館殺人事件」、以来毎年作品を発表し続けたが、終戦の翌年脳溢血で倒れた。
 その死の直前、疎開先から上京した虫太郎は先輩である乱歩宅に泊めてもらい、旧交を暖めた。西洋指向の強い虫太郎は、この時、これからやってくるだろう自分の時代を予感していたであろう。享年45歳の早過ぎる幕ぎれであった。
 乱歩と虫太郎。ふたりにとっての神田は、活字と本に対する愛情として今も受け継がれ、書棚の片隅から頬杖をついて見下ろすこの怪人の姿は、今も変わらず推理小説ファンを魅了し続けている。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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