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神田資料室

KANDAルネッサンス 35号 (1995.10.20) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(24)

藤井康男

 明治の初め、生粋の江戸生まれで三代つづくならし屋の吉田金兵衛なる職人がいた。ならし屋というのは銅の原板を金槌で叩いてうすく引き延ばす商売である。ところが明治十年(一八七七)の西南戦争のあと不景気が来て、まったく商売にならない。考え抜いた末、道楽で少しばかり買ってあった錦絵や絵本類を売ることを思いついた。当時、日本橋の人形町では夜店が盛んだった。こゝでカンテラという石油を灯す明かりをそばに置き、持参した品物を拡げて露店を張った。そこにやってきたのが、よこはまから来たという外国人、毎晩夜店をひやかしに寄っているベンケイさんである。金兵衛さんは職人だから、お客に話なぞとてもできない。ましてや英語など一言半句もしゃべれない。一方はまた片言まじりの日本語で、「コレ、イチマイ、イクラデスカ」というだけ。しかたなく金兵衛さんは「レコです」といって指を一本出した。「百です」というつもりだった。百というのは一銭の意味である。このころは、夜店では大抵のものにまだ百文という、江戸の名残の正札が掛かっていた。そして一円とか二円といわずに一両とか二両といった。十銭とか二十銭とかいわずに、一貫とか二貫とかいっていた。ところが相手にはそれがどうしてもわからない。とにかく積んであった版画から、自分で五十枚ばかり選り抜いた。そして五円札を出した。金兵衛さんのほうでは合計で五十銭だから四円五十銭のお釣りを払おうと思った。でもお釣りがない。マゴマゴしているうちにベンケイさんはその絵をぐるぐる巻いてスタスタと帰ってしまった。
 金兵衛さんは間違いで五円などという大金が入ったものだから、これはありがたい、けれども返品でもし戻ってこられては大変だ、というので、すぐさま店を閉まい、カンテラをかたづけ、わずかの品物を風呂敷に包み、ゴザとともに荷車に積んで大急ぎで神田豊島町の自宅へ帰った。その時分は五円といえばかなりの大金で、一日の売上げは多くて一円ぐらい。せいぜいが六十銭程度。警察官の月給が五円二十銭とか六円という時代である。だからベンケイさんに見つかるとあぶないというので、あくる日は休みにし、二、三日たつてからおそるおそる場所を変えて夜店を出してみたのである。(「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」砂川幸雄著 草思社)
 出た! 遂に出た。この稿の連載をはじめ、多くの本、文献を読んだが、わが豊島町の名がこれ程はっきりでてきたのははじめてである。更にお許しをいただき引用をもう少し続ける。
 するとベンケイさんはやってきた。返品にきたのかと思っていると、そうじゃない。何もいわないで、また錦絵の積んである中から三十枚ほど選り出して、「イクラ」「コレイクラ」とやっている。そこでまた人差指を一本出すと、先方は自分で勘定しながらポケットから五十銭銀貨を六枚出して買っていった。
 こうして、先方は一枚十銭で買ってくれるんだなと、金兵衛さんはようやく納得したのである。そしてベンケイさんが選んでいったのを調べると、歌磨の版画ばかりだった。それで初めて、歌磨の錦絵なら一枚十銭で売れることを知った。ベンケイさんは「ウタマロハ、ワタシ、イクラデモカイマス」といった。当時は、くず屋の「建場」といって、紙くず類の問屋の仕切場が、下谷にも神田にも、おそらく五町は十町くらいの間に必ず一軒はあった(私も戦前記憶にある。「クズ屋おはらい」という呼声は昔町の風物詩であった)。そしてそこへ行けば、みな千住の紙すき場へ持っていって釜でゆでてしまう前の、古い錦絵などが縄でしばって束ねてある。されも買う人がないので、一貫目(四キログラム弱)十五銭か二十五銭ぐらいで、三貫でも五貫でも買うことができた。金兵衛さんは歌磨がありそうな束を引っかきまわした。春信時代から初期豊国あたり、歌磨あたりは、想像もつかないほどたくさん、こうした紙くずの中にあった。ベンケイさんは二年ぐらいは、「ウタマロヨロシイ、ウタマロバカリヨロシイ」といいつづけていたのでこんな有難いことはなかった。「これも江戸の資源リサイクルの一つで紙一枚捨てず再利用するシステムは今日うらやましい限りである。しかし同時に多くの錦絵、浮世絵、文献が再生されてしまい、寫業も歌磨もと思えば頭が痛くなってくる」。

 以上は、金兵衛さん(のち浮世絵商として大をなす)の甥にあたる竹田泰次郎氏からの聞き書き(反町茂雄編「紙魚の昔がたり」平成二年)をいくぶん脚色したもので、古い浮世絵や絵本類を売る商売の始まりの姿である。聞きちがいでベンケイにされてしまった、この歌麿好きのコレクターは、英国人のフランシス・プリンクリーのことで、慶応三年(一八六七)に来日して以来、終生日本に住み、東京帝国大学工学部(当時は工部大学校)の教師を務め、外人居留地の新聞「ジャパン・メール」の経営者兼主筆であった。日本人は芸術作品としては浮世絵をほとんど認めなかったのに、外国人はこれに高い価値を認めて早くから買い集めようとした。それはフェノロサやプリンクリーよりもっと以前から熱心に行われていた。
 俗に浮世絵の海外流出とよくいわれるが、このような例をみると、本来彼等の手に入らなければ失われていた作品の多くが幸運にも海外で保存され、それが印象派などに「ジャポニズム」の強い影響を与えることになるのだから面白い。シーボルトなどはその中で最も組織的な蒐集を行い、八百点もの貴重な作品を持ち帰っている。安政二年(一八五五)ごろには、J・G・ウーセーがパリのヴィヴァンヌ街に東洋美術店「シナの門」を開店した。文久二年(一八六二)、ロンドン万博にすでに浮世絵が展示されていた。慶応三年(一八六七)の万博にも、北斎漫画などが並べられたという。国内における浮世絵専門店の第一号は「酒井好古堂」といわれる。この店が神田淡路町に開店したのが明治八年(一八七五)であった。
 さて豊島町の名に興奮していろいろ引用し私説も述べてきたが、この「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」という本は近来出色の名著といっていい。本欄の愛読者ならばぜひ一読されるべきである。この一冊にいろいろ驚くような史的事実や人物と人物のつながりが出てくるのみならず、日本の学界芸術界のどうしようもない権威主義と後進性がするどくえぐられている。そしてこの一部の学識経験者、専門家、批評家の横暴は今日ますますひどくなるばかりである。誰が見ても外国人すらも日本における風俗画、浮世絵の元祖というべき岩佐又兵衛の存在を、肉筆画は浮世絵でないというまことに珍妙な、理屈にならぬリクツから、否定してかかろうという権威者の醜態があますところなく述べられている。私がこの本を読みつゝ何回もひざをたたいたのは、一芸術分野の細かい調査考証をやりながら、日本文化の本質にふれるするどい見解を随所にちりばめ、この本そのものが現代のきわめて痛烈な文明批評になっている点である。近来めぐり会うことのまれな名著であり快著である。ついでながら、江戸の中心にありながらわが豊島町の史実は何とも心もとない。その一つのきっかけがつかめたことも私にとって大きかった。

 何度も述べたことだが、江戸の見なおしは今さかんである。NHK「吉宗」にしてからが、今迄の時代ものとは大きく違うとり上げ方をしている。その一番大きな変化は歴史の視点の変換であろう。それはひとことで言えば、権力者の歴史から民衆の歴史へのシフトと言っていいだろう。浮世絵などは権力とは全くかかわりないという点も今迄なおざりにされていた理由の一つだろう。歴史は常に権力によって都合の良いように書き変えられる。本当の姿は民衆の視点に立たねばわからない。今回は半分書評のようになってしまったが、悪のりついでにもう一冊紹介したい。
「江戸の経済システム」(鈴木浩三著、日本経済新聞社出版局)。今から考えてもう一つわからないのが江戸の経済である。米本位と貨幣経済が混在し、しかも金と銀と銭それぞれの相場があり、今日の経済からみるとまことに複雑である。日本人が経済に滅法強いのは長い年月、この複雑なシステムに訓練されたためではないかとさえ思える。
 本書はそこのところをまことにわかり易く述べたおそらく最初の著作ではないかと思う。しかも読み進むうちに、いかに現代の日本が江戸により左右され決定されているかだんだんわかるようになる点、充分現代的でもある。




藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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