KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

神田資料室

KANDAルネッサンス 34号 (1995.07.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内19

永井夢之助はなぜ尺八を選んだか——永井荷風の神田学生時代

中西隆紀

ホルンと尺八
 村上春樹の最新刊『夜のくもざる』の中で著者は「ホルン吹きはなぜホルン吹きになったか」考えてみれば不思議なことだと言っている。実にその通りで、なぜ彼があまたある他の楽器を強いて選ばずホルンを選んだのか、愕然とするに違いない。その時ひとは改めて「出会いというのは偶然なのか必然なのか、必然なのか偶然なのか」などと唱えながら、トランプのどっちが裏で、どっちが表なのか返しがえししながら結局一枚の紙でしかない我が身のことを知るのだ。
 作家永井荷風、永井壮吉は「尺八」を選んだ。なぜ尺八なのか。今でいえば高校生くらいの多感な時期にあたるが、後年の氏の江戸趣味、洋楽やオペラへの傾倒などに至る最初期の萌芽ということになるだろうか。もっとも、「子供の時分乳母がよくギコギコお船はどうことを云つて揺って呉たやうな」遠い昔は別にしてということになるが、音に対する感覚は人一倍敏感であったことはこの短い一行を見ただけでも間違いないだろう。

盗まれた時計と外套
 最近は電子楽器でいろいろな音が再生できるけれど、尺八はデジタル信号で最も表現しにくい楽器ではないだろうか。大袈裟に言えば、それはあたかも人間の口吻で竜巻を起こすようなものだからだ。実際に聴いてみればよくわかるのだが、琵琶や三味では口から火を出すようなそんな場面、そんな一刻を表現したものを聴いたことがない。
 少年荷風は、上野の音楽会で荒木古童の尺八を聴き、その驚きを後年次のように語っている。
「一世の名人といわれた技藝家の技藝には、實に犯し難い威厳があるものだと云ふ事を、子供ながらに、つくづく感じ入つた」
「自分はもし出来る事なら明日と云はず其の日からでも、古童翁の許に弟子入りして、あの不思議なる技藝の道を教はりたい」と思った。しかし相手は家元の大家、厳格な永井家の父の事を考えるとまずは内緒で独習してみようと諦めをつけた。「で、先づ學校の歸り道、神保町の古本屋をあさって、尺八獨稽古なぞといふ書物二三冊を買ひ求め、其の次には笛屋をさがした」。手頃な価格といっても値は5円、その金を才覚するために所持していた銀時計と新調の外套を質に入れ、家人には時計をポケットに入れたまま外套を盗まれたと嘘の申告までして茶を濁した程であった。

尋常中学と学校事情
 尺八という姿を借りて何かを表現したかったちょうどこの頃が荷風の神田時代である。場所は一ツ橋。明治24年9月、それまで通っていた東京英語学校(神田錦町)をやめ、一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学科第二学年に編入学している。当時12歳。
 とても長い校名だけれど、これが当時の学校行政の複雑さを反映している。
 明治初期の神田は多くの家塾が誕生し、やがて近代的な学校が林立していくのだが、官学ひとつとっても統廃合を繰り返し、その度に名称を変え試行錯誤を重ねていた。
 荷風もそんな中で何とか中学を卒業するが、病院に通ったり転地療養したり、例の尺八に凝ったりで卒業したときには18になっていた。
 実際に古童門下の可童について尺八を習いだしたのは卒業の前年で、学校のある一ツ橋から歩いてすぐの神田美土代町であるという。
 荷風は名人古童の許に通って免許も取ったと言っているが、実際は素人同然の少年、研究家は古童の長男か門下の可童であろうということで、はっきりしない。

文学と放浪の船出が神田時代
 中学卒業後、一高入試に失敗。当時日本郵船上海支店長だった父にともなわれて、母や弟らと上海に旅行した。初めての洋行に当然のことながら、ここで荷風は中国に興味を抱く。中国語をやりたいということで、帰国後、これまた一ツ橋にあった高等商業学校附属外国語学校清語科に入学した。
 画家になろうか、尺八をやろうかという逡巡の時期を経て、文学と放浪の道を歩み出す。それが荷風の神田時代といっていいだろう。
「われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが」「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし」。と同時に、この頃から荷風の放浪癖が始まっている。学業は第二、専門の小説家の教えを受けたい、そういう念を抑えることができず紹介者もなくいきなり柳浪の門を叩いたのであった。

荷風、またの名を三遊亭夢之助
 荷風は神田の学校を抜け出しては、小説家になる方法を探ろうとしていた。学校を棄て毎日のように街に出かけた。現代も同様であろうが、雑学を学ぼうとすれば街自体がキャンパスになってしまうのが神田の特異な立地である。殊に当時の神田は本屋だけではなく、芝居や寄席や勧工場(今のデパート)がアミューズメント・センターのように散りばめられていたのは今の比ではない。劇場だけをとっても三つもある(三崎町三座〔東京座・川上座・三崎座〕。
 その彷徨は並ではない。毎日寄席・芝居を見歩くだけでは物足りず、「人情咄に一新機軸を出さんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子」となってしまった。その名も三遊亭夢之助として夜々席亭に出入りしている。

除名か、廃学か
 その結果は「除名」。落語家としての才能が基準点に満たなかった訳ではなく、当然学校からのきついお達示であった。
 宮城達郎「学校時代の永井荘吉」(『文学』S45年6月)には学籍簿が掲げられている。

  永井荘吉、愛知県士族。
  学習科目、清語(高等附属尋常中学校卒業)
  入学年月、明治三十年、明治三十二年、
  試験欠、明治三十二年十二月十日除名。

 また、これによると、校舎は創設当時(荷風は第一回入学生)は一ツ橋にあり、32年には錦町に移っている。
 こうして見てくると、このあたりで荷風は学校というものに完全に興味を失っているように見える。
 体操は全部欠席、語学以外の法律などもやりたくなかったと後に言っている。
 事実、年譜を見るとこの後、飯田町の暁星学校の夜学でフランス語の初歩に手をつけてみたり、アメリカでの短期間の大学生活もあった。しかも結局、趣味人の孤塁をなんとか築いていこうというのが本音であり、そういう意味では外国語学校時代にもうすでに、自ら「廃学」を決意していたとも考えられる。

蓮の花をわたるそよ風
 病弱な少年だった「荷風」のペンネームは病院で作られた。淡い初恋の相手がお蓮という看護婦であったからだ。荷は蓮を意味し、漢詩と大陸と女性への憧憬がここにある。
 荷風にとって神田という街のキャンパスが多分に蠱惑的であった分、いっそう学び舎は暗く窮屈な場所であった。
 そしてベッドの横の花の手の感触と、嬌声が乱舞する神田の夜、密やかな家での読書、これが荷風の学生時代を統べていた。
 外国語学校をやめた翌年も次々に作品を発表、そのかたわら福地桜痴の門下になり、歌舞伎座の作者見習として、拍子木を入れることから始めた。
 こうした歌舞伎との縁から、後に市川左団次(2代目)との交友が始まる。
 左団次は歌舞伎俳優の洋行第一号と言われる。神田三崎町で川上座を開いた川上音二郎の勧めに従ってヨーロッパの土を踏んだ。
 帰国した翌年(明治41年)、居城明治座で劇界刷新を実現しようとしたが失敗、小山内薫と組んだ自由劇場第一回公演で新境地を開く。大正6年から駿河台(神田区北甲賀町10番地)に住んだが、江戸文人の遺品を収集、同じく江戸芸術に思いを寄せる荷風と意気投合し、楽屋入りを許している。

二度の結婚と駿河台
 荷風は1年に満たない短い結婚を2回している。大正2年1月、父の葬儀が神田美土代町の基督教青年会館で行われたが、これを契機に最初の妻と離婚、翌年馴染みの八重次と結婚した。この時の媒酌人が親友左団次夫妻であった。
 こうして駿河台の左団次邸は江戸趣味人の溜り場となっていったが、同じ頃に「雨声会」と称して文士を招いていたのが同じく駿河台の宰相西園寺公望であった。これにも招待され出席している。
 また、「荷風と神田」でさらに特筆しておきたいことが二つある。
 場所は湯島だから神田川を隔てて対岸にあたるが、湯島聖堂が一時図書館として使われていた。当時文部省にいた荷風の父久一郎はこの東京書籍館館長補となり(明治8年)、病弱の館長に代わって草創期に活躍した。
 さらに、もう一つ、明治の文人で幼稚園に通った人も少ないだろうが、荷風はこの図書館の隣りにあったお茶の水女子師範学校附属幼稚園に通っている。
 因みに、この図書館も幼稚園も日本で初めての施設であった。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
ページの先頭へ

戻る

ホーム ホーム