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KANDAルネッサンス 26号 (1993.07.20) P.10〜13 印刷用
神田貼雑独案内11

BENCH MARK CHASE ロンドン・東京=明治水準点追跡(中編)

中西隆紀

ロンドンの爆弾事件
「ロンドンのセント・ポールと、東京のニコライ堂の水準点を並べてみたい」と書いた前回の記事がでてからしばらくたった4月24日、午前10時26分、またもロンドンの市街地で爆弾事件が起こった。路上に停めてあったトラックが爆発、1名死亡、その他多勢の負傷者が確認された。
 ロンドンでの爆発、それも金融街CITYと聞けば、いつものことながらカトリック過激派組織IRAの犯行と誰しも考えるのだが、場所がCITYと聞いて、思わず「日本人の負傷者は…」と記事を見つめざるを得なかった。
 というのは、もしかすると、ちょうどこの頃、私がまだ一度も会ったことのない一人の日本人女性が「ロンドンのCITY地区へ行くように」という私の指令書を手にして、その辺りをカメラをぶら下げて散歩を試みていたかもしれないからだ。
 
旧市街の戦場=CITY
 もし、彼女が爆弾に縁の深い女性だとすると、当日、私の意図しないIRAの戦場へ彼女を送り込んだのは私だということになる。その指令書は確かに私が書いた。地図は確かにCITY地区に限られているし、不思議な暗号までついているのだから、当局が嫌疑を差しはさんでも文句のつけようがないということになる。
 しかしながら、私も彼女もIRAのメンバーからは程遠く、アイルランドの独立どころか、自分自身の独立さえまだ覚束(おぼつか)無いという状況なのだ。爆発があったのは、日本でいえば兜町または日本橋といった、銀行、王立取引所、証券取引所、ギルドホールなどが密集するロンドンの旧市街、それも新聞によればビショップゲイト通りだという。まさに渡した地図の中心にあたる。

セント・ポールとロンドン塔
 分かりやすさを基準にして、私はCITYにある有名な観光地を2ケ所あげた。1ケ所はロンドン塔、そしてあと1ケ所はあのダイアナ&チャールズが結婚式をあげたセント・ポール教会。ビショップゲイト通りから少し離れてはいるが、その右と左にあたり、移動の際には、当然、トラックの前を通らなければならないということもあり得る。24日に行っていなければいいのだが……。
 そんな訳で、翌日の新聞に日本人負傷者がでていなかったので胸をなぜ下ろした。
 それからしばらくして、「水準点が見つかった」という久保工の望月さんからの電話があった。彼女はこの『神田ルネッサンス』の編集部員で、彼女の友達でたまたま今、ロンドン近郊でホームステイしている小池美奈子さんに私の資料を言付けていたのであった。この5、6年で4、5人のロンドン通に頼み込んだが、らちがあかず、ここにやっとロンドンの水準点が見付かったのだ。予想はしていたが実物を写真で見るのは初めて。なる程、日本の明治水準点とそっくりだ。

友達は興奮して一日中言い続けていた
 早く会員に知らせなければと思いつつ、小池さんの手紙を見せていただいて再び驚いた。何と彼女は事件当日、そこに居たのだった。
「25th. April 1993
 もちへ、お元気ですか? 昨日ロンドンへ行ってきました」
 で始まるその手紙は、まずセント・ポール・カテドラルでの発見のようすを伝えてくれる。
「探す前に友だちに資料を見せたんだけど、興味があるっていうからつきあってもらったのね。それで友だちが「あった!」というものすごくびっくりした声で教えてくれた。ちょうど横玄関の左側にありました。2人とも見つけた時はすごく感動して「本当にあったねえ」なんてしみじみと話してしまいました。」
 これを読んでこ、これだけ喜んでくれるなんて、私もしみじみ彼女たちに託して良かったなぁと思ったものです。

激しい恋人
 結局、ロンドン中に数多ある水準点も一つだけ確認できたのですが、これはまったく爆発事件のせいです。そして、たまたまこの日を選んだのは、彼女の持っている情熱的な性格が爆弾と深い赤い糸で結ばれていて、しかもその激しい恋人に逢わずに無事に帰ってくるという天性の幸運を身につけていたからだと思われます。いずれにしても、この日彼女たちは、事件を知らずに地下鉄が動かず大変な苦労をして、かつ、以前にも、同じIRAのテロ騒ぎでハロッズに入れなかった経験を告白しています。こうした彼女たちの強運のおかげで私たちはやっとロンドンの水準点を確認することができたのです。
 さて、こうして最終目的地であるロンドンの水準点が多少の形の差はあるものの、日本にある明治水準点とほぼ同一のマークと見て差し支えないという結論にまで達しました。いったい誰が何の目的でロンドンのマークを東京各地に彫り込んだのか。そして、水準点とは都市にとって何であるのか、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

水準点と高度感覚
 山に登ったとしよう。眼下に雲海を眺めながら、この山はいったい2千何百mあるのだろうかと標高と自分の位置を確認したくなるのはごく自然なことです。しかし、いったん山を下りて、あの懐かしい塵芥と騒音にハエやゴキブリも同居する八百屋やら本屋の前に立って、ここは海抜25mだから、高波にさらわれる恐れはまずないなんて真剣に考える人間がいるだろうか。いても何ら世間の損得と関係ないので問題はないが、逆にゼロメートルに近づくと再び緊張感が甦(よみがえ)ってくるから、これも我々の動物的嗅覚のひとつと考えていいのかもしれない。ちなみにゼロメートルは海面の高さの平均をいう。
 山は高きゆえに貴くもないし、川は低きゆえに卑しくもない。貴くもあり、卑しくもあるのが、その中緯度地帯にたむろする高度感覚無臭にんにく人間なのだとうそぶいても、我々の水準点探索の仕事に何らかの価値を付加することはできないのは明白である。

正確な東京地図と鳥居
 高度感に乏しい町の人は、高度差に乏しい土地に住む。そんな東京の市街を、イギリスから取り寄せた最新測量機器を肩にかついだ一行が歩き回る。先月までは品川方面、次は神田から駿河台と、ゆくゆくは日本全国ということになろうが、先を考えると足元が危うい。現下の目的は正確な東京地図である。
 英人マクヴィーンを中心に、総勢7名といったところだろうか、時は明治の10年頃だ。
 昨日は駿河台下の道路脇に標石を埋め込んだので、今日はお茶の水の高台にひときわ高くそびえるニコライ堂を目差す。故国イギリスには珍しくはないが、東京にはこうした石造の堂宇はめったに見られない。水準点を不動のものとして彫り込むには絶好の建築物であった。日本の場合、その標的に第一にあげられたのが神社の鳥居だ。鳥居もやはり石造が多いからだ。

不動のポイント
 水準点は、海面からの高さを示す標識である。位置ばかりではなく、高度を地図上に表すために、地点を選んで記録していった。
 当時、ニコライ堂は現在見られるようなドームはまだ建設されておらず、ロシアから来日したニコライ師と熱心な信徒のための館があるばかり。この石造の教師館脇の壁にマークが彫り込まれた。現在でも教師館はニコライ学院や事務所として使われているが、当時と同じ場所に同じ姿であることが、このマークが唯一課せられた役目でもあった。
 そして、その不動のポイントに課せられた任務は未来永劫に続くはずであった。一朝一夕に成らぬ地図作成の仕事は、一点、一点のポイントにハーケンを打ち込むようにマークが彫り込まれ、次代へ受け継ぐ標点として残される。したがって、現在でもその不動の任務を主張しているのが本来の姿であるといってもいいだろう。近代地図作成草創期のこのマーク、しかしながら、10年を満たずしてその効力を失うのである。一旦わざわざ設置したものをなぜ無視して地図行政をすすめたのか。したがって現在でもこのマークは使われていないが、その裏には明治政府の軍部を手中にしようとした山縣有朋の影があった。

都内に散在する痕跡
 山縣有朋と軍部の台頭により抹殺され、今、東京都内に散在する明治水準点の痕跡。それがいったい何者であるのか人に知られることもなく、今に残っているのだが、現在まったく使用されていないから、国土地理院の専門家でさえ知らない人も多いという。したがって、私たちが歴訪した寺や神社の僧侶や神官が知る道理もなく、「ああ、そういう印ですか、気が付きませんでした」と、宗旨や教典の芳しい香りなき話は他山の石でしかないように見受けられたが、まあ、事実、信徒の悩み程に深刻であろうはずもなく、かといって、あまり軽く扱ってほしくもない。
 しかし、ニコライ堂はそうではなかった。当今のファッション関係の強引な取材で、写真撮影禁止など、過度に敏感にならざるを得なかった事情もあったのだが、水準点の撮影には快く応じてくれた。
 それはたぶん、我々の追求がごく単純なものに根ざしていて、美や爆弾といった瞬時に成就するわりには永遠という途方もない時間を所有しようという過大な欲望に恵まれていなかったことによるのだろう。

二つの基本図の謎
 次号は、「爆弾」に象徴される軍隊と、近代地図作成の黎明(れいめい)期を追ってみたいが、どこまでせまれるかまったく自信はない。しかしここに二つの地図がある。ほぼ同時期に刊行されたもので、図式の違いはあるものの、中身はまったく同一といっていい。
 一方は明治20年に刊行された「参謀本部陸軍測量局五千分の一地図」、略して「参謀五千」。そして、一年後の21年に刊行された「内務省地理局五千分の一地図」、略して「地理五千」。どちらも東京図だ。
 「参謀五千」と「地理五千」、どちらも精密さにおいて、当時並ぶものはどこにもない。並ぶものがない二者がどうして並んでいるのか。なぜ、ほぼ同じ地図をわざわざ一年後に図式を変えて地理局は出版したのであろうか。
 明治期のどの東京図を見てもこれ程正確精緻なものはない。まさに基本図というべきだ。近代的な測量機器を使用して実測した基本図が、なんと二つあるという矛盾をどう考えればいいのか。そしてその測量成果は寸分の違いもなく、ピッタリ一致している。
 むしろこれは、どちらかがその測量成果を盗んだと考えたほうが自然ではないのか。いったい参謀本部と内務省にどのような確執があったのであろうか。
 それらを次号で追ってみたいが、それは、我々が追求してきた英国式の水準点が内務省地理局のものにしか見られず、これ以後このマーク(図式)はいっさい日本の地図から消えて、ドイツ式となって現在に至る過程を知りたいからだ。
 不動の「不」に似て、不動であるはずの水準点はこうして形骸だけが残ったのである。
(次号へつづく)




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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