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KANDAルネッサンス 22号 (1992.07.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内7<神田写真グラフィティ3>

出版界のカチカチ山の泥仕合——白秋と寛のデスマッチ

中西たかき

 昭和初期の出版界は空前の円本ブームで沸いた。一冊一円の豪華文学全集など、大人向けの企画が続々と登場するなか、あらわれるべくして予告されたのが、同日同時に発表された二つの児童百科。片やアルス、片や興文社・文芸春秋社。ここに北原白秋が売ったケンカを菊池寛が買う。その狭間(はざま)にいたのが芥川龍之介だった。

天才とバカは紙一重
 大きかったり、生長が早かったり、毛並が美しかったり、動物や植物にも優良種をうんぬんするのが人間という種のお目出度いところである。こうした自己中心的な人間の中で、もし天才という種が存在するとすれば、常人には見られない集中力と感受性が、まるで本人の意識を越えてそこにあったかのように感じさせるところから来ているのかもしれない。そころが、その才能は何も天から降ってきたわけではなく、本人がもだえあがいた恍惚(こうこつ)の証しを示したに過ぎないのだ。
「パトグラフィ」という学問は、日本では精神医学の福島章氏によって知られているらしいが、心理学から天才にメスを入れて謎解きをしようというものだ。
 私事で恐縮だが、昔、嫌いな授業が数多(あまた)ある中でも、心理学が私はいちばん嫌いだった。しかも、よくある例だが、嫌いのなのは心理学ではなくて、先生の態度が心理的に嫌いだったからだ。
 当事者にとってはまるで袋小路のようなあらゆる悲惨な場面を、まるで恋愛相談のごとく、必要以上に笑顔で相対していたからだけれども、まあ、それは本人の社交偏愛の結果として、最も聴くに耐えなかったのは表らグラフを多用したことだ。それはまるで、庖丁の切れ味を披露する肉屋のようだった。

天才一覧表
 福島氏の著書にもやはり天才一覧表のような図が添付されているのも事実だが、確かに一寸見には面白いが、あまり気持のいいものではない。例えば音楽家を例にとると、ベートーベンやブラームスはてんかん気質であり、ショパンやマーラーは分裂気質、チャイコフスキーは躁うつ病の同性愛といった一覧表である。これだけ見れば、単に人間の気質に病名のレッテルを貼っただけに過ぎないから、音楽を聴く何の足しにもならない。せいぜいちょっとしたヒントか蛇足といったところだ。ところが作家の死因が自殺となると、気質や小さな事件、世間の中傷など軽く見逃すわけにはいかなくなってしまう。それが人情というやつで、冷徹な学者には味わえない読者の特権の一つといってもいいかもしれない。
 文学の世界でも同様に、芥川龍之介の自殺の原因がさまざまに憶測される。「ばくぜんたる不安」はいつの世にも存在しているのだろうが、世間的なバランス感覚に縁の薄い場合、ごくごく些細に見えるようなことでも複数の要因が重なったりすると、個人であることが重圧に思えてくるのは一般の人とそう変わらないと思える。しかしながら、集中を自らの力と頼む作家としては、より深くやわらかい雪中を求めて歩いているようなものではないだろうか。気がつけば足をとられて身動きがとれないとすれば恐ろしいことだ。

デスマッチ
 いささか小説仕立ての構成ではあるけれども、村松梢風の『芥川と菊池』では、次のようになっている。

 菊池もこのことで芥川に対して同情していた。「芥川さんが非常に困っていられるそうです」という言葉を聞くと、まったく芥川に気の毒なことをしたと思った。菊池とちがって芥川は、ひどく世評を気にする人間だから、彼がどんなに気を腐らせているだろうかと考えると、気の毒で、芥川に顔を合わすのも辛かったので、大抵の用事は人を通して済ますようにして、なるべく芥川と逢わないようにしていた。
 
 菊池寛はなぜ芥川を避けていたのだろうか。そして「このこと」とは何だろうか。芥川の自殺の引き金になった原因の一つに「このこと」をあげる人がいるが、心に翳(かげ)りを落したことはまちがいないだろう。
 最近出版された本では『内容見本にみる昭和出版史』(本の雑誌社)があり、そこで紀田順一郎氏は出版史に残るスキャンダラスな一件としてこの事件をとりあげている。題して『芸術か商人か』……。出版社としてアルス対興文社、そして事件を代表する作家として北原白秋対菊池寛の有名な逸話だ。そのサブタイトルがふるっていて「日本児童文学と小学生全集のデスマッチ」……。まさに格闘技のような論戦が、汗ならぬ唾(つばき)を飛ばして戦われたのである。

告訴
 昭和2年5月21日の東京日日新聞夕刊は、「流行のついに裁判沙汰」として、次のように伝えている。
「小石川区表町一〇九「日本児童文庫」発行所アルス社主北原鉄雄氏は、山崎、松谷両弁護士を代理人として日本橋区馬喰町二の一「小学生全集」発行所株式会社興文社専務取締役石川寅吉並びに文芸春秋社菊池寛両氏を相手取り、二十日午前十一時、信用毀損、業務妨害の告訴を東京地方裁判所検事局に提出した。告訴理由の要点は、被告側は原告側の予約出版を妨害する目的で、去る三月中旬頃から継続し、
(一)偽計を用いて予約出版の生命眼目して機密中の機密に属する告訴人の「日本児童文庫」プラン(出版予定計画書)を巧みに入手し、ほしいままにこれを利用して「小学生全集」の計画を突如発表し、
(二)二、三十万円の予約募集広告を全国の新聞、雑誌に掲上するに際し、すこぶる巧妙なる舞文を以って盛んに虚偽の風説を流布し、告訴人の信用と日本児童文庫の価値とを毀損、誹謗し、
 さらに(三)として、文部大臣の推薦文を偽造して、推薦のない日本文庫を劣位にあるかのごとく社会に発表した」と訴えた。

類似企画、同時発売
 その発端は昭和2年3月27日の新聞広告であった。
 一面上部にアルスの「日本児童文庫」の大きな白ヌキ文字。一見すると一頁全面広告に見えるが、よく見ると広告は2分されていて、下半分はまったく別会社。それも「小学生全集」とあり、名称こそ異なるが、児童向けの大型企画が同時にこの日に発表されたという印象を受ける。
 一般読者とは比べものにならぬ程驚いたのはアルスの関係者だったろう。日本一千万の児童に向けた唯一無二の大全集のつもりが、二つまったく同じ日にちに出版予告が発表されたのだ。
 この日以後、拡大する広告合戦に加え、白秋の攻撃、そして寛の弁明の論戦が展開されていくのである。
 アルス側の驚きがいかばかりであったかを物語るのが数日後に発表された「満天下の正義に訴ふ」という白秋の長文である。それはある意味では芸術家という衣をかなぐり捨てて、子供の危機を救う親のさけびといった感がある。

怒ったのです
 「怒ったのです。私は怒ったのです。怒らずにはいられないのです。菊池寛何者であります」といった激烈な個人攻撃と、アルスの経営者である弟北原鉄雄が汚濁されたことを、友人の画家山本とともに訴えた。
 これに対して興文社側の菊池寛は事業家といった側面もあり冷静に受けとめているのが心憎い、しかしながら、相手が白秋であるだけに右翼の暴漢にピストルをつきつけられた時と違って、やや及び腰である。
 「白秋氏の如き天馬にも比すべき芸術家が、御舎弟の出版事業に熱狂して自分に喰ってかかっていられることは非常にお気の毒です。だが、——今度の「小学生全集」の計画も、今年の一月からやっていることです。廉価本全集全盛の昨今、こうした思付は御舎弟が考えつく如く興文社が考えつくのは当然ではありませんか」……さらに「正義とか芸術とか文教とかそんな高飛車な物云いを、あんな時にするものではありません。少なくとも一商人である令弟を防御する時に使うべき言葉ではない」といい、一冊50銭と35銭とどっちが社会的奉仕かと逆に攻め入っている。

漏れた機密
 白秋の絶叫調から比べると、寛の商人としての沈着な物言いに、軍配が上がりそうだが、事実はいったいどうだったのだろうか。岡野他家夫氏の『日本出版文化史』によれば、この種の事件は、円本全集時代には幾つもあったという。なにしろ事業としての出版がこれ程活気を呈した時代もめずらしく、出版者や文士にばく大な金額がころげ込んだ。そうした中での金銭的なトラブルは多かったようだ。
 しかし、この対決は企画の良心を問うもので、広告掲載に至る過程で、なんらかの確執があったにもかかわらず、菊池寛と連名で掲載された芥川は名義を貸しただけで、どうもつんぼさじきに置かれたようだ。
 実際に広告を日を追って見ていくと、アルス側が予告の次の日に全面広告で詳細を発表したのにくらべて、一日遅れた全面広告の興文社・文芸春秋側は、依然として「詳細は近日発表す」とあり、企画で後手に廻っていたのは事実のようだ。
 とすると、アルスの企画が事前に誰かの手によって察知されていて、興文社側にもれたと考えられる。

板ばさみ
 芥川がもらしたのだと噂(うわさ)する人もいて、事実、誰かとの一寸した会話を気にしていたらしい。しかし、この件に関して芥川の悲劇は両者に関係していたことだ。
 興文社は企画を立て、編集責任を菊池に頼んできた。それを本屋の希望もあり、より華をそえるべく「小学生全集」は「菊池寛・芥川龍之介共同編集」という形で発表された。
 芥川は文芸読本でこりたあとなので、本当は断りたかったのかもしれない。しかし名義だけならという軽い気持であったと思われる。
 一方、アルスでは以前に芥川の最初の創作集とでもいうべき『羅生門』をだしてくれた出版社としてのつき合いがある。
 そのアルスから見れば、芥川は敵方の代表人の一人ということになる。菊池としてみれば、芥川に今、下りられてはたまらない。芥川は白秋と菊池の両者に挟まれた形で自ら甘んじなければならなかった。

自殺の原因か
 村松梢風によると、広告掲載に関しては広告代理店の博報堂がからんでいて、アルスの社主北原鉄雄が預けていったプランの詳細を、博報堂は不用意にも興文社の専務に貸してしまった。「これは面白い。参考のために一日だけ貸してくれ」という言葉に乗ってしまったのだという。
 興文社側は以前からプランはあったらしいが、これ程煮つまってはいなかったから、アルスの広告に合わせて急遽発表したというのが真相だろう。
 この事件を紀田順一郎氏は「出版のオリジナリティということが芸術家の立場から問われた最初の事件ということもいえる」といっている。
 同日発表という挑戦的な広告が白秋を怒らせたのであろうが、アルス側もまったくオリジナル企画と主張するわけにはいかないのは、四年前に日本出版社というところからでた同様の児童叢書を無視するわけにはいかなかったからであろう。
 「係争は七月末に示談、八月上旬に不起訴となったが、この紛争は双方とも四、五十万円(現在の十二億〜十五億)もの広告をドブに捨てたようなもので、アルスは翌年あえなく倒産、興文社も前後して姿を消した。企画だけの文芸春秋社は無傷だった」(紀田氏前掲書)。芥川龍之介は全集がスタートして二ヶ月後に自殺。直接の原因とする人はおそらく誰もいないだろうが、文人でありながらも商人としての側面から雄然と対処していく菊池寛は明快な存在だが、この寛に対して白秋や龍之介の不透明な感覚は、われわれ常人にとっては、やはり心理学に頼らざるを得ないのかもしれない。
 その後、アルスは立ち直り、写真分野で活躍、戦後再び再編した「日本児童文庫」を企画したがあまりうまくいかなかったようだ。




中西たかき フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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