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神田資料室

KANDAルネッサンス 22号 (1992.07.20) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(11)

藤井康男

 北斎の富嶽三十六景に使われている「青」は、不思議にあざやかな色で今日でも色あせていない。最近の研究でわかったことだが、あの波の色などに使われていた絵具はラピスラズリの微細粉を含んでいたのである。ラピスラズリは今日高級アクセサリーなどにさかんに使われているが、古代の中国では玉(ギョク)の中でも貴重なものとされ、皇帝の愛用品などにさかんに使われた。中国ではダイヤやサファイヤなどより、ヒスイや玉が貴重なものとされていたことは故宮博物館の収納品を見てもよくわかる。
 ラピスラズリはパキスタンあたりの奥地からとれる美しい濃紺の石である。生命力の宿る石とされ、古代からヒンズー教やイスラム教などの宝物に多く見られる。幸福の石とも言われ、これを持つ者に強い運勢を与えるとされている。
 去年ヒマラヤのウルタルで惜しくも亡くなられた日本一のアルピニスト、故長谷川恒男氏からにぎりこぶし程の大きなラピスラズリの見事な玉をお土産にもらったが、これはいま私の会社の応接室のケースの中で神秘的な輝きをみせている。この玉のせいか、それから会社には不思議とラッキーなことが何回も続けて起こっている。

 ラピスの輝きはやがてシルクロードによりヨーロッパに伝えられる。ヨーロッパでも異国の神秘な光が珍重されたが、やがて誰かがこの美しい石の粉から青の絵具をつくり出す。たちまちこのラピスラズリ・ブルーは広まり、著明な画家が争って使うようになる。しかし、もともとインドあたりからしかとれないし、量も少ない。その上に良い色を出すための粉をつくるのがむずかしいから非常に高価な絵具であった。
 それがどうして北斎の手に入ったのか。今では全く謎である。当時日本に入った径路は、オランダ商館を通じて幕府に贈られたり、大名の手に入ったものが北斎のところまで流れたのかも知れない。ただ最近になって、シーボルトが日本の武具・風俗のたぐいを描かせた見事な数十葉の絵の作者が北斎であることがつきとめられた。北斎はラピスラズリの絵具をシーボルトからもらったか、絵の謝礼の一部として受けとっていた可能性もある。
 画家にとって思うような色が出せることは職業上の最大のノウハウである。自分だけの色を持つことが画家の夢であろう。ゴッホの黄色やシャガールの緑、ゴーギャンの赤、最近では富岡惣一郎の白(トミオカホワイト)などは色そのものが他の追従を許さない。白は時と共に黄変しヒビが入る。白を生命とする富岡は偶然不変の白を発見し、自分の一生使う分をストックするとその調合法を破棄したという。ラピスラズリのブルーは画家の理想の青だったから、長い間高価なものであるのに使い続けられた。十九世紀のはじめ、ベルリンで化学合成により安価で美しい青がつくり出されるまでラピスの青は不滅だった。この合成品がプルシャンブルー(プロシャの青)なのである。
 同じく色あせぬ青の染料、藍がインドで発見され、長い間イギリスのドル箱だったが、ドイツで化学染料のインディゴの発明により没落したのと同じである。インディゴの発明にちなんで、ヨハン・シュトラウスが「インディゴ行進曲」という曲を作曲している程、当時のトピックスだったようである。

 さて江戸にラピスラズリブルーが来ていたように、鎖国中にもかかわらず、面白いものが当時の江戸には沢山来ている。オランダ商館の使節が将軍の前で室内楽の演奏をしたり、象が江戸の町を歩いたり、今日では思いもつかぬ西欧文化の流入があった。
 私のところの祖先にあたる秋田佐竹の殿様が、日本最初の油絵を残している。神田に住んでいた平賀源内が銅の鉱山開発のため秋田に呼ばれ、藩の絵師に油絵の技法を教え、それが殿様に伝わったようである。秋田蘭画として今日国宝になっている。いまの東神田から上野浅草方向に佐竹通りというのがある。秋田佐竹の下屋敷があり、私のところ(龍角散)の祖先は代々佐竹の典医であり、もともと佐竹の一族だった。それ故、江戸時代から今のところ(昔の豊島町、いまの東神田)に住んでいた。龍角散はもともと門外不出の秘薬であったのである。
 源内が誰から油絵の技法を学んだのかはわからない。しかし彼は日本のレオナルド・ダ・ビンチともいうべき人で、多くの発明(エレキテル、不燃布)をなし鉱山の開発や水道の設計を手がけ、何よりも博物学の大家であった。湯島の聖堂で物産会を度々開き、おそらくラピスラズリなども並べられていたであろう。歌舞伎の「神霊矢口の渡し」は平賀源内の作であり、劇中、矢が飛んできたり水鳥が動いたり、源内好みのからくりが使われていて面白い。

 多くの文化が当時の江戸、特に神田に集まったことは想像できるので、神田文化史のようなものを誰か書いたら面白いと思う。今日神田は「教育と文化の町」として、新しい町づくりに力を入れようとしているのも故なしとしない。大久保彦左衛門も一心太助も、遠山の金さんも江戸神田に縁がある。伝馬町の牢屋には吉田松蔭も高野長英もとらわれていたことがある。今のふな亀のある所、神田お玉が池では千葉周作の道場があり坂本龍馬も出入りしていた。半七や銭形平次(フィクションだが神田明神に碑が立っている)もこのあたりが舞台である。お玉が池といえば幕府種痘所跡の碑があり、東大医学部発祥の地でもある。錦華小学校では夏目漱石が学んでいたし、明治のはじめには日本ハリスト教会(ギリシャ正教)のニコライ堂ができた。二・二六事件では九段会館(当時の軍人会館)が戒厳令本部となった。
 こう見てくると神田は歴史の町、文化の町でもあった。京都を歩くといたるところに史蹟の表示があり、歴史の中を歩く感じがするが、江戸神田もまさに本の歴史そのものの町といっても良い。ただ現代になるとビルが立ち並び、近代的都市景観はそういうものをすっかり忘れさせてしまっているのが京都との違いである。

 今年神田明神史考刊行会から、「神田明神史考」という立派な本が出た。
 明神総代の遠藤達蔵さんの多年に亘るまことに立派な著作である。この本は早速に神社庁から賞をいただき、その内容が一流であることが証明された。神田明神こそは実は関東の雄、平将門を祭る由緒ある神社であった。
 将門は桓武天皇の苗裔高望王の孫とあるから皇族の直系の名門であるが、所領争いから天慶の乱に巻きこまれ、朝敵として打死する。京都の四条通りを歩くと道端に小さな社があり、「神田明神」とある。将門の首は京都に送られこの場所にさらされた。しかし首は一夜のうちに宙を飛び、関東に帰ってきたという。その首を祭った場所が今の将門首塚(皇居前)なのである。神田明神の大祭の時、行列がここにとどまり祝詞をあげる。今坪一億の時代に二〜三十坪の首塚が何とそのまま残してある。この場所に手をつけると必ずたたりがあるという。占領時代にもGHQの命令でここに何か手を加えようとした時、関係者が次々怪死するので取り止めになったという話がある。
 今年の大祭の時、首塚のそばに立っている説明を読むと、ここは何と昔酒井雅家の屋敷があり、伊達騒動の時原田甲斐が殺された場所だというではないか。何か不思議な因縁を感じる。この首塚は映画「帝都物語」にも不気味な形で登場する。平将門は行きがかり上朝敵になったため、表だって神田明神の主神とならなかったが、関東では隠然たる民衆の人気があり、いたるところに将門が祭られている。一種のロビンフッドのような存在であったらしい。明治のはじめ朝敵の名は勅許でなくなったが、今度はその頃から急に頭をもち上げた皇国史観のあおりを食って又地にもぐることになる。そして今度こそ将門は神田明神の三の宮として返り咲いたことになる。このように江戸神田は歴史と文化に満ちみちている。いずれ稿をあらためてそのようなストーリーを拾ってみたいものである。




藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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