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KANDAルネッサンス 20号 (1992.01.15) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内5<神田写真史グラフィティ1>

白秋と鉄雄(Tonka John & Tinka Kohn)——アルスという出版社

 
中西たかき

 何時の頃からか、古書市へ行く度に「アルス」という三文字を追っていた。あの白秋の赤いビロードの詩集と、帆を上げたオランダ船のマークを懐かしく思う人も多いだろうが、それが戦後しばらくして、何時の間にか神保町の片隅から消え、今や「アルス」という出版社があったことすら知らない人も多くなった。トンカ・ジョンとチンカ・ジョンの出版社「アルス」。40年近い歴史をもち、北原白秋と日本の写真史では欠かせない存在でありながら、社史も持たずに消えていった出版社…。

本の街の世界事情
 TOKYOは神田程、書店が集まっている町は世界中捜しても、まずないだろうと、外国通の人に聞いたことがある。ところが、ぼく自身は当然のこととして、世界事情を咄嗟に答えられる人などそういるものではない。だから、さらに外国通の人に会う度にこの質問を繰り返していた。新聞記者が体験していない事項について書く場合に、複数の有識者から「ウラをトル」のと同じやり方である。
 神田書肆街の歴史を、京都とともに併載した『東西書肆街考』(岩波新書)の著者、脇村義太郎先生を、潮風と陽光まぶしい逗子のお宅にお邪魔した時も最後の質問はそれだった。答えは、ロンドンやパリのセーヌ左岸など、勿論あることはあるが、神田程ではないだろうということであった。先生は著書の前書きにも述べておられるが、本当は京洛・東京にロンドンを加えて「三都書肆街考」としたい意向であったらしい。
 さらに、世界事情ともなれば、ニューヨークはどうか、ローマはどうか、北京はどうか、はたまたナイロビは、そして、ラスベガスまで調べなければならないのかもしれないが、たまたま、懇意にしていただいている日大の沢村良二先生が、学会でトルコへ行かれるというのでお願いしたら、トルコにも小規模ながらそうした一角があるという。いずれにしても大学のあるところに本屋が必ず存在するのは事実だ。また、本の世界は広いから、取扱分野を変えれば同じような書店が並んでいたって競合することはない。これは築地の海産物問屋だって、ちょっと目先を変えてカマボコ専門店があったり、ワカメや割り箸専門店まであるのと大差ない。

こんせんとれいと
 昔といっても5・6年前ぐらいまでだったと思うが、神保町交差点角の岩波ビルの上のほうの階にイギリス大使館の文化部があり、図書館があった。ここの館長は、ジェイムス・メルヴィルの筆名で探偵小説もこなし、料理についての著書もあるといった多才な方で、あつかましくももし懐まで入り込めば、他にも変わったコレクションが見付かるのではないかと思わせた。したがって、そのヒゲの中にはヨーロッパのエッセンスが蓄えられているようにも見え、それに日本通のスパイスを加えたのが、大谷本部長がガイジンと渡り合う探偵小説であった。
 通訳を通して何とかインタビューは終ったが、神田本の街に対してやはり同じ質問をすると、通訳までがぼくの貧しい語学力をためすように「こんせんとれいと」といっていますという。「はあ、はあ、コンセントレイトですか。なるほど…」といって、帰ってきてから辞書に抱きついた。
 これがまあ、旅費を使わずに「ウラをトル」ぼくの結論ということになる。つまり、どこの国でも本屋はたくさんあるが、これ程「集中」してひしめきあう町はまずないだろうということになる。

影の仕掛人
 その集中度をさらに分析してみると、外見から分かるのは、本の街の実態の3割程度といえるかもしれない。というのは、確かに古本・新本書店が並んでいるのは誰にも分かる。だが、活劇街ならぬ活字街のボスや影の仕掛人は、外から看板も見えないようなビルや木造のアバラ屋などで、未だ形にならざる幾億の言葉という化け物の横に金銭出納簿を置いて寝起きを共にしているからだ。その出版社の数、神田だけで何と五百もあるという。大出版社は広告塔も大きいけれど出ていく金額も莫大なものだ。しかも文化を扱っている商売なんてよばれるから、少しは謙虚な面も見せなくてはならない。難しいところだ。ところが、生まれては消え消えては生まれる小出版社はというと、本当は牙を見せたいのだが、どうしても歯ぎしりで終わってしまうといったこともありえる。

社史もない大出版
 まだまだ貧しい資料ながら、ここに紹介する「アルス」という今は亡き出版社の最後はそうした小出版社の歯ぎしりに似た面があったと思われる。
 戦前は幅広い分野に渡りかなりの出版点数を誇り、総合出版社として知らない人はいない程の存在であったが、戦後は、日本初のアマチュアカメラ雑誌の伝統を受けついだ「カメラ」誌を柱に、分野を写真にしぼって活躍していた。だが、半世紀近い歴史をもつこれだけの大出版が、社史の一つも残すことなく、神保町の片隅から消えてしまう。これはいったいどうしたことだろう。
 社長を北原鉄雄といい、彼の死と前後してアルス社も消滅したようだ。昭和32年のことだ。写真雑誌の先駆者として独走していた戦前にくらべ、戦後は写真ブーム。そしてこの昭和32年時点での写真雑誌は、10誌にものぼっていた。

アルス学校
 まず、大正10年創刊のアルスの「カメラ」誌。それに次いで大正15年創刊の「アサヒカメラ」、それ以外に「サンケイカメラ」、「日本カメラ」、「写真サロン」、「フォトアート」、「月刊カメラ」、「写真の友」、「カメラの友」といった乱立状態であった。
 この昭和32年4月中旬号の「出版ニュース」を見ると次のようにある。「最近では「カメラ」も休刊中であったが、同社からはカメラ雑誌の優秀な編集者を出し、現在も活躍している人が多い」…と。それを写真関係者仲間では「アルス学校」とまで呼んでいる。それぐらい写真に携わる人たちにとっては忘れがたいアルスの存在であった。
 現在、アルスという出版社の存在を知る人は、二つのタイプに分かれる。一つは写真関係者、そしてあと一つが、大正・昭和の文学史の中の北原白秋に興味を持つ人たちだ。北原鉄雄は白秋の実弟であり、出版社「アルス」は実質上、白秋から始まったといえるからだ。

評番ぢゃ評番ぢゃ
 最初、アルスは出版社名ではなく雑誌名だった。その最初の出版社の名前が有名な阿蘭陀(おらんだ)書房。やはり白秋の実弟のアトリエ出版の社長北原義雄氏は次のように語る。「さて阿蘭陀書房が誕生したのは、大正四年二月十一日紀元節の日である。所は麻布区坂下町十三番地。森鴎外、上田敏両先生を顧問に仰ぎ、長兄白秋が顧問兼編集長で三十一歳、次兄鉄雄が社主兼営業部長で廿九歳、私はあと一カ月で、麻布中学を出ることになっていたので、お前も一緒にやれとのことで、ただ一人の小僧兼社員として参加することになった。阿蘭陀書房の命名は勿論白秋だが、阿蘭陀船のマークも自ら描き順風満帆、芸術書店の旗印も勇ましく、意気揚々とすべり出して行った。そして早くも四月には、高度の純文芸雑誌『ARS』の創刊号を、単行本では、白秋の抒情小詩集『わすれなぐさ』が出ることになった。」
 「長崎の港にかの怪しき切支丹邪宗の…」で始まる白秋自らの筆による長く命短し善主麿(ぜんしゅまろ)、真実無二なる披露(ひろめ)の言葉、「阿蘭陀書房の言葉」の最後は、「芸はさあさあ評番ぢゃ評番ぢゃ」とたいへんな張り切りようであった。内容も定価も豪華。しかし売れ行きは二千部、千五百、千と落ちていき、通巻7号で休刊となってしまった。

『写真のうつし方』
 阿蘭陀書房の設立は大正4年4月。『ARS』を柱に、白秋の詩集など数冊の文芸書を出しているが、翌5年には早くも三宅克巳著『写真のうつし方』の1冊がある。文芸書の中にあって少々異質に見えるが、写真が実用ばかりでなく、芸術あるいは趣味の一分野として確立しつつある時期で、一般向けの技術啓蒙書が求められていた現実を先取りしたものでもあった。
 その翌年には阿蘭陀書房をたたんで、大正6年、北原鉄雄を社主に出版社「アルス」が誕生しているが、先の『写真のうつし方』は売れ続け、大正11年までに60版を重ねている。
 この成功は、今まで職業写真家だけのものであった技術書を、平易な日常会話で説いた点にあり、それ以後のアルスはこうして方向づけられていったのである。
 そして場所も、阿蘭陀書房の銀座尾張町から神田中猿楽町15番地へ移り、震災後は小石川区表町109(大正13年〜昭和3年頃)を経て、神田区今川小路2の1(昭和4年〜7・8年頃)、そして神田区神保町3の13(昭和9年〜16年頃)から戦後は千代田区神田神保町3の17に社屋を構えていた。

震災盗撮行
 これらの番地は、私が10年がかりで集めたアルス本40数冊からの経過であるが、古書市へ行く度にさまざまなアルス本に必ずといっていい程お目にかかった。それ位、多岐にわたって多くの出版物が発行されていたのだ。高価な本はメモにとどめ、安い本ばかりの貧しいコレクションだが、その中に、昭和31年発行、雑誌『カメラ』の創刊35周年記念号というのがある。簡単な年譜とともに35年を回顧したものである。これは巻末に20頁ばかりの特集があり、簡単な年譜とともに35年を回顧したものだ。ここで社主の北原鉄雄は伊藤逸平を相手に対談を行なっている。
 
伊藤 大正十二年九月一日の震災のときなは「カメラ」を休刊しましたか。
北原 休刊しません。九月号全部配本して焼けたのです。(中略)雑誌も出せそうにないので弱っていたら、三宅さんが来まして「元気を出せ、とにかく震災記念号を出そうじゃないか、写真は全部おれが撮ってやる」とこういうんです。そしてそのときのカメラはアーグス・カメラでね。普通のカメラじゃ写せません殺されますよ。アーグス・カメラというやつは単眼の望遠鏡みたいな格好をしていまして、前ににせ球があってシャッターが横向きなんだ。それで三宅さんが全部撮ってきたんですよ。記事もおれが書くというんで、アルス関係の文学者を呼んできた。島崎藤村、小松耕輔、与謝野晶子、宇野浩二、恩地孝四郎、戸川秋骨、芥川龍之介、吉川速男、北原白秋というようなわけです。それでとにかく休刊しないでやった。

チンカ・ジョン
 そうした苦労を重ねながら白秋の弟、鉄雄は、「この間において、社運にも盛衰がありましたが、私は「カメラ」の発行だけは万難を排して死守して今日にいたったのであります」と語る。
 この『カメラ』35周年記念号からわずか1年後、社主鉄雄の死去により4月1日アルス社の社葬が行われたのであった。
 ゴッホを引き合いに出していいのか悪いのか分からないが、ゴッホにテオという弟がいた。そして白秋にも寄りそうように鉄雄がいた。まだ幼い頃、故郷九州の柳河では柳河語で三才年下の鉄雄はチンカジョン(小さい坊ちゃん)と呼ばれ、兄の白秋はトンカジョン(大きな坊ちゃん)と呼ばれた。赤いビロードのアルスの白秋全集の巻頭には、Tinka Johnがライカで撮った写真も載せられていたことを思い出す人も多いであろう。(つづく)




中西たかき フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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