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KANDAルネッサンス 19号 (1991.10.21) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内4

『明星』終刊号 荷造り啄木と寺山修司

中西たかき

 明治浪漫主義文学の牙城でもあった雑誌『明星』は惜しまれながら100号で終刊となった。23才の啄木は与謝野鉄幹からその終刊号の荷造りを頼まれ、神田錦町に出掛けて行った。YMCAの斜め前に今でもある「明治書院」である。

啄木の音声
 石川啄木がローマ字で綴った「ローマ字日記」は有名だけれども、ぼくが日記をつけなくなって何年が経ったのか、「かなり」としか言いようがないくらいに勝手に世の中と地球が動いてしまっているのは、まことに恐ろしいことといわねばならない。
 そんなわけで、確かに昔、どこかの展示場で、写真や骨格などからコンピュータで分析再現した石川啄木の音声を聞いたことがあるのだが思い出せない。
 ただそれは、童顔の啄木から誰でもが想像できるように、少々甲高い調子がネジを巻きすぎたカラクリ人形のように一本調子に進行していたのだけはよく憶えている。しかしながら、その記憶の中に東北弁が入っていないらしいところをみると、音声を決定するコンピュータのさまざまな要素の一つに「岩手県のなまり」を入れ忘れたか、または、一般には聞き取りにくいので省いたのかもしれない。

空に吸はれし十五の心
 訛(なまり)で誰でもがまず思い出すのが、「一握の砂」の中の次の歌だろう。
  
  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聞きにゆく

 この停車場は上野駅ということになっている。実際に上野駅までそのために出掛けていったのかどうかはあまり問題ではない。啄木の中の「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし」という肯定的要素と、「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ」という苦い思いが、この「訛なつかし」の中に見てとることができる。
 そして、これらの歌は懐古の念、または、過去へフィード・バックする何らかの理由を持っているのだが、彼にもそうした振り返る理由がほとんど見当たらない時期というものもあった。
  
  不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

アテネ・フランセ
 皺(しわ)に星霜をたたえた石川啄木というのは、かのマリリン・モンローと同じく永遠にあり得ない。いつも彼はおぼっちゃん顔をして我々の前に現われる。そして、我々と同時代に生きなかったその顔を、私たちは写真でしか見ることができない。
 啄木というといつも思い出す現代作家がいて、彼には一度、お茶の水のアテネ・フランセで会ったことがある。寺山修司だ。同じ東北(青森)出身の作家というだけでなく、その他に多くの共通点を見い出せるようにぼくには思えるのだが…。
 当時、実験的な映画をよくアテネ・フランセでは上映していて、その券を買うために事務室に入ったのだけれど誰も出てこない。相手がいないのだから当方から声を出さねばと、首を伸ばしたその刹那(せつな)、なんと事務員のかわりに寺山が顔を出して、何だ知らぬ男かといった顔でそそくさと袖に消えたのであった。
 それからしばらくして見たのが、同じくアテネ・フランセで上演された寺山作の演劇『盲人書簡』のおどろおどろしい世界である。

盲人と犬と五寸釘
 ぼくたち観客は、定刻を過ぎたというのにエサも貰えずに、ホールにも入れてもらえず、何も悪いことをしないのにオアズケをくらった犬のように玄関横の路端に並ばされていた。突然、上を見上げて指差す人がいる。この時点ではまだ我々は寺山の仕掛けに気付いていない。何か突発的な事件が起ったのだ。一匹、二匹、五匹と上を見上げる犬が増え、我輩も犬であるからしてパブロフに倣い思わず上を見上げると、4階の窓から男が一人這い出てきて、壁面に椅子を固定して座り、挨拶もせずに引っ込むという、罪なき小犬を徹底的に小馬鹿にしたものだった。それが第一の始まりで、第二の始まりはホールの中へ全員が入り終えた時だった。突然明かりが全て消え、それだけならばともかくも、唯一の出入り口である戸口の方から五寸釘を打ち込む音が釘の連射でこだましたものだからギャーッという悲鳴が起こり、それが連射にダブッて響き渡った。しかし場内にはまだ棺桶の暗黒が支配している。不安げにささやきあう男女…。と、舞台に半裸のマッチを擦(す)る怪人、一匹、二人間、三妖怪…。こうして劇が始まった。

 石川啄木が「空に吸はれし十五の心」と詠んだのと符合するかのように、寺山にも次のような「十五歳と題して」という短歌集がある。

  理科室に蝶とじこめてきて眠る
  空を世界の恋人として

  マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし
  身捨つるほどの祖国はありや

 そして、啄木忌によせて「便所より青空見えて啄木忌」の句があった。

『明星』100号で終刊
 啄木は周知のように東京での住まいが本郷近辺にあって、神田にはあまり縁がなさそうに見えるが実はそうではない。方々歩き廻っているし、ぼくがまず思い浮べることができるのは、錦町に今でもある「明治書院」。駿河台下の今のビクトリアの位置にあった「中西屋書店」。そして「正則英語学校」などである。そこで啄木はある感慨にふけっていた。
 明治41年11月6日、空は曇っていて今にも雨が来そうな気配だった。外が暗いのだから、建物の中に届く光はいちだんと薄い。錦町の「明治書院」の倉庫部屋で啄木は、雑誌『明星』の終刊号の荷造りをしていた。ところが、何か考え事でもしていたのであろう。小指を少しすりむいてしまった。
 『明星』は周知のように、与謝野鉄幹が創設した東京新詩社の機関紙であって、明治33年4月に創刊された。もしこの雑誌がなかったら、啄木の文学への道程は違った方向をとっていたかもしれない。
 最初は新聞の体裁で、6号から雑誌の形をとり、この41年の終刊までに100号を数えた。与謝野鉄幹、晶子夫妻を中心に窪田空穂、高村光太郎、木下杢太郎、平野万里、吉井勇、北原白秋、小山内薫、そして石川啄木がいた。まさに新派和歌運動の中心的存在であり、「浪漫主義文学の牙城」といった観がある。
 啄木は15才の時、盛岡中学校の親友金田一京助から『明星』を借り愛読者になったが、創刊2年後の35年に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野に叫ぶ歌」を皮切りに、有名な「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」など多数の歌や詩歌を『明星』に寄せている。

女中と小僧と三人で
 終刊号の荷造りをする1カ月程前、啄木は金田一と写真を撮りに行った。

「十月四日 日曜日
 明星百号に載せる写真を撮りに行かうといふので、昼飯がすむと、金田一君と二人で出かけた。九段の坂の佐藤と言ふ処で撮る。金田一君は腰かけて、予は立って。」……。
 
「十一月六日
 今日“明星”終刊号の発送するから、暇なら手伝ってくれぬかといふ与謝野氏の葉書があったので、八時半ごろから小川町の明治書院に行った。程なくして与謝野氏も来た。
 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦った明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠ってゐる。
 予と、千駄谷(筆者注:与謝野宅)の女中と、書院の小僧と三人で包装を初めた。与謝野氏は俥で各本屋へ雑誌を配りに行った。十二時を打つと平野君も来た。予は糸をかけるに急いで左の手の小指を擦傷した。平野君は切手を貼る時、誤って一枚顎へ喰付いて、口を大きく開いて指を入れた。眼鏡の下で眼が白かった。
 三時頃になって済んだ。ハラハラと雨が降り出したので平野君と二人電車で帰った。」

借金 VS 洋書の金文字
 『明星』は100号で終刊となり、挫折感から主宰者であった鉄幹は気分転換もかねてヨーロッパへ旅立ってしまった。
 その翌年の啄木の日記に神田が登場する。
「懐中に五円札が四枚あった。これをこまかくしなくては電車にのれぬ、何を買ってこまかくしようかと路々方々の店や勧工場を見ながら、何でも最も必要な、安い物を買ふつもりで、とうとう神田まで歩いてしまった。そして東明館という勧工場(筆者注:現三省堂書店の位置/勧工場(かんこうば)は今でいうデパート)も、買いたい物が無数にあるに不拘、イヤイヤこれよりも必要なものがある——と考へて何も買はずに出て了った。そしてフラリと中西屋—書肆—(筆者注:今の三省堂向かい側のビクトリアの位置/後に丸善神田支店となる)へ入った。君、背皮の金文字が燦爛として何千冊の洋書の棚に並んでゐる前に立ったとき、僕は自分の境遇を忘れ、函館を忘れ、下宿屋のツケを忘れ」、紫表紙のワイルドの一冊に吸い寄せられていった。本来ならば、すべて借金の返済に当てねばならない貴重な臨時収入なのだ。
「これはいくら?」と啄木がいった。
「三円五十銭でございます」と番頭が答えた。
「それその通り高い!」と思ったが、彼はなけなしの五円札を財布から取り出すのだ。
 その日、持ち帰った本=オスカー・ワイルド『芸術と道徳』を、彼は頭がズキズキするにもかかわらず寝ないで読み上げたと本人はいうのだが、知識欲という金文字に目がくらんで、かなり無理をしているのはまちがいない。そして3円50銭で買ったその本を、二日後に本屋に1円30銭で売っている。
「とうとう僕は二円二十銭の損をして了った」のであった。




中西たかき フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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