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神田資料室

KANDAルネッサンス 19号 (1991.10.21) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(8)

藤井康男

 法人会の大家さんが珍しい本をとどけて下さった。『廿世紀之東京 第壹編 神田』である。三百ページ位の厚いもので、明治三十七年十二月の発行、出版協会(神田区五軒町廿番地)、写真も大変めずらしいものが多く、お茶の水假橋や小川町の電話通り、万世橋の街並み、日本大学の新館、明治大学の本校(木造三階)、錦城中学など、貴重な記録ばかりである。中の広告が大変面白く、これはあとでまとめてとりあげたいと考えている。神田の花(芸者衆)とか龍名館の庭園(堂々たるものである)など現代あるものの当時がしのばれる写真も少なくない。本文も仲々興味深く神田の街々を一つ一つとりあげ、名前の由来・歴史などにふれ、東京名物百佳選とかうまいもの屋紹介など変化に富んでいる。
『廿世紀之東京 第壹編 神田』(出版協会)
 本文の一部を引用してみる。
「神田区は宮城の東北にあり、東南は日本橋、浅草の二区に接し、西南は麹町、北は本郷、小石川、下谷の三区に隣って、地勢は平坦、ただ宮本町と駿河台がやや見上げらるるものとなって居る。なほ区内の神田川より南を内神田と云ひ、北を外神田と稱し、通り町を東西に分けて、東を東神田と云ひ、西を西神田と呼んで、神田方角の大区分をし大いに便利なことがある。戸数は三万に近く、人口は十四万を超過している(当時の区分が今の町名になった。なお人口は神田だけ)。ここはもと「ミトシロ」と云い、皇大神宮に新稲を奉るべき料地で、神領であった所から、神田の稱呼を得たのである。町は左記の如くで、区の極東が八名川町、極西が三崎町、極南が西今川町、極北が本書を発行する五軒町である。神田区の町名。「い」雁が淵の水涸れていつとなく家屋を建埋められた「岩本町」、今川橋の東西に町となった「東今川町」「西今川町」、もと高家今川某の邸であったところから記念して名づけられた「今川小路」、もと藤堂和泉守の邸地であった所からこの町稱ある「和泉町」。「は」もと旅籠を営む家の多かった所からこの町稱ある「旅籠町」、もと草花を多く植えたる地で、明治七年此名を与えられた「花園町」、寛政五年花房町、須田町の代地となって居る縁由により、明治五年其一字づつを取って名とした「花田町」、享保九年開けて町家となった「花房町」、正保年中博労役橋本源七の拝領地であった「橋本町」。「に」もと幕府諸士の邸宅で追時開けた「西小川町」、もと一色某の二邸のあった所から、二色小路といひしを、維新後改稱された「錦町」。「と」享保六年芝増上寺へ火災地を設くる為め、其町の人家をここへ移したおり初まった「富山町」、享保三年火災後を受けて起った「富松町」、元禄四年に開けた「豊島町」、享保後開け、元幕府の同朋の宅地であった「同朋町」。
 ざっとこんな具合で読んでいると興は盡きない。それにしても十七世紀すでに百万都市だった江戸で、神田の人口が明治三十七年に十四万とは驚くような集中度である。更に各町名ごとに詳しい記述がある。豊島町の項を拾ってみよう。

 神田豊島町に二つの横町がある。一つは比丘尼、一は桂、比丘尼横町には土妓(?)が住んで居たところから附けた名として意味が面白いではないか。桂横町は美男鬘を売る店があった所から始まったのである(今は町内の誰に聞いてもどの場所かわからない)。東龍閉町から大和橋を渡ると、とり付の両角、右が鈴木砂糖店で、左が渡辺という錻力(ぶりき)店である。その通りを真直に行くと出外れ際に左側で、よく夜店などで声を涸らして居るのを見受ける競売中野商会がある。その通り左角に魚伊という料理店があり(この名前は子供の頃聞いた覚えがある)、左に大竹硝子店がある。右角を左へグルリと屈れば(これがよく分らない)柳町通りで、中野うどんの極めて安直なのがある。魚伊の角をグルリと右に曲れば有名な古道具町の半分を引受けて、萬緑叢中紅数点というのもおかしいが、森久竈店、谷口という改良風呂店、田村硝子店などその中に目立って見えるのである。
 これではまるで浦島太郎で全く見当もつかない。もっと早く古老の話を聞き、図面でも残しておくべきであった。しかしどうやらその頃は様々な店が立ち並び、住民も多く大変活気に満ちた町であったらしい。そして古くから金持ちや武士ではなく、八っつぁん熊さん的下町の庶民の町であったようである。明治前からここに住んでいた私の家が出てこないと思ったら、その頃は今の表通りでなく、裏でひっそり薬屋を営んでいたからで表通りとは縁が無かったものであろう。家の祖先は秋田佐竹の御典医で、それが薬に変ったのである。佐竹通りに下屋敷があったから、そばに住まわされたものと思う。製薬メーカーとして飛躍するのは祖父の代、つまり明治の終りから大正昭和にかけてなのである。

 この本はこんな具合にまるでタイムマシンのように百年前の神田へワープさせてくれる。しかし江戸の変わりよう、神田の変わりようはすさまじく、多分神田のどこへ行っても同じような具合になっているであろう。それは日本が激しく発展したことの証でもあるのだろう。
 この本はゆっくり読んで(しばらく拝借できることになっている)、又面白い話が出てきたら逐次紹介したいと考えているが、今回は巻末の広告のページから話題を拾ってみたい。おそらく有料で紹介したものだろうが、イロハ順のあらゆる商売が載っている。医院がはじめに出てくる。筆頭は今も有名な井上眼科病院で、約八十軒(歯科の二十軒は入っていない)、人口当りでは一人当り千六百人ぐらいである。これは少ない方ではない。神田の繁栄が偲ばれる。印刷関係約六十、糸物商二十五、その他ローソク、金銀箔、袴、人形師、煮まめ商、帽子商二十軒(!)、ボタン、よく分らないのは俸商(張物仕用・萬力横堤とある)、米穀商は何と百軒、弁護士四十、旅館なんと六十軒、桶職、女髪結、塗物商、果物商三十、学校・塾の九十は驚かされる。よく分からないものを拾ってみる。ズーク商、用達業、形師、唐木細工商。寄席が十三軒もあった。私が覚えているのは立花ぐらいのものである。

 神田はそれから大正十二年の関東大震災で焼け、昭和二十年の三月大空襲壊滅した。実は江戸、とくに神田は昔から火事の名所で徳川三百年の間に二十年ごとの大火、五〜六年ごとの中火で常に焼けては再建を何回となく繰り返してきた。宵越しのゼニを持たないなどというのも、そこらあたりに一つの理由があろう。百万都市の再建は大変である。材木も人出も職人もみんな江戸に集まってしまう。一極集中は何も今始まったことではない。火事のたびに良い仕事になるので、日本中の大工も左官もみんな江戸へ来たがるので、困り果てた地方の各藩は何度も禁令を出すが一向ききめが無かったという。
 しかも江戸は一大消費都市であるから物流も集中する。すべてこれは家康の考えた参勤交代という、世界のどこにもないユニークな制度のためで、それが今日まで少なからぬ影響となって残ってしまったとも言えるのではないだろうか。この古い本を読んでいると往時の神田のにぎやかさが想像できる。
 東京は国際都市として二十一世紀にかけ、おそらく過去最高の変化を起こすことになるであろう。今から百年といわず二十年もすれば今日の東京や神田のことを覚えている人は少なくなるだろう。今の東京を神田を記録することは大変な作業である。しかしそれは是非やっておきたいことである。変化のスピードに追いつけないかも知れないが、今は昔と違って各種の便利な記録手段がある。コンピュータもある。ビデオもマイクロフィルムもある。先日教育委員会の席で、私は次のような提案をした。神田のどこかに、神田データセンターを作って欲しい。そこへ行けば神田の過去と現在がすべてわかるデータベースを揃えておくべきである。
 人間生活は過去と現在、未来を通じ変化はするが一貫したものも多い。それを充分知ることによってのみ、未来を論じることが初めて可能になるのではないだろうか。この一冊の本は私にそういう無言の教訓となったのである。
藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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