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神田資料室

KANDAルネッサンス 18号 (1991.07.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内3

光太郎と日本初の画廊

中西たかき

 画廊のメッカといえば、現在は銀座ということになるだろう。百軒近い店が集中しているからだ。ところが、大正から昭和初期を見ると、数は現在程ではないが、銀座と神田に二分されている。そして、彫刻家であり詩人であった高村光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅かん洞(ろうかんどう)」は、後に日本で初めての画廊といわれるようになった。

似ている
 浮世絵のコレクションで酒井好古堂の名を知らない人はいない。超一級の資料として内外に知られているが、その当主酒井藤吉さんに同行して埼玉の暁斎記念館に行ったことがあった。その当時は明治の異才画家河鍋暁斎(かわなべきょうさい)を追っていたからだ。
 酒井さんの名刺には、ホノルル名誉市民とあり、ぼくの行動半径を何倍かに広げて、逆さに振ってみても無駄な努力というほかはない。
 ある時、神田淡路町のお宅へおじゃました。古いもののいくつかを見せていただいたその中で、ふと目についたのが、好古堂の旧店舗の掛軸だった。「実に似ている」…。
 下の二つの絵を比べていただければわかるように、一つはアップ、一つは全景であると推測するのは誰にも容易である。一つは光太郎の経営する琅かん洞を記録した唯一のデッサン、一つは酒井好古堂。これは偶然の一致なのか。まったく同一の建物なのか。今までこの二つを結びつけて考えた人はいなかったから、「探偵シタイココロ」はおさえがたく、好古堂の古い証文やら、図書館の地図やらをひっくり返して、普通はそれが徒労に終わり、ぼくは誰のために、何ゆえに、何をどうしたい欲望にかられているのか、まったく分からなくなって、酒場の戸をたたいて片ひじをつくのが関の山であった。ところが今回は決定打はないものの、80%の確証を得たのである。

牛肉屋の隣り
 数少ない琅かん洞の記述のうちの一つ、岸田幸四郎氏の『劉生・1925年』(皆美社)では、日本で初めての画廊「琅かん洞は神田淡路町にあった。須田町と駿河台にはさまれた淡路町は当時は一番の盛り場で中川という有名な牛肉屋の隣にあった。店は向かって右にショーウィンドウがあり、その左が出入り口で、出入り口をはさんで幅の広いウィンドウがあった。四間ほどの間口で、床はそのころもっともしゃれた赤れんがが敷いてあり、へや全体が陳列室になっていた。また中央にも陳列台がおいてあった」と書いている。
 牛肉屋の中川は有名で、その隣が琅かん洞だとすると、酒井好古堂はどこなのか。
 そこに表われたのが、明治33年の商店街の一覧表。これで見ると、何と「牛肉中川」の隣は「古書籍商(好古堂)酒井藤兵衛」とあり、広い淡路町一丁目一番地の中でも、好古堂と琅かん洞はまったく同一の場所にあったといっても早計ではないという結論だ。その上、外見がそっくり…。確立を93%ぐらいに上げてもよさそうだ。

浮世絵から西洋美術へ
 とぼしい資料からすべてを総合してみると次のようになる。
 好古堂は、寛政年間の信州にまでさかのぼる。12の蔵を持つ松本の豪商であり、絵画を愛する6代目は、江戸からやってきた北斎・広重など絵師や文人墨客の宿を提供していた。
 7代理兵衛の時、酒井家書斎を「好古堂」と命名したのは佐久間象山である。
 東京は神田淡路町に酒井好古堂を創立したのは8代目藤兵衛、明治3年であった。以来、浮世絵美術出版業、美術商として、現当主藤吉氏の誕生を祝し、庄吉は専門誌『浮世絵』を創刊する。
 好古堂が淡路町一丁目から二丁目(現在の場所)に転じたのは明治35年。その後、一丁目の店舗は誰がしかの手に渡り、明治43年4月、光太郎によって琅かん洞と名付けられ、それが日本で初めての画廊といわれる。しかし光太郎は1年で身を引き、その後、琅かん洞という名の画廊は他の人の手で何年か続いたようだ。

懐古と想像と事実
 さて、ここまで来て、推理小説のファンならずとも、もう気が付かれたかも知れない。酒井好古堂の絵図の横に書かれた年号が大正になっているのだ。
「大正初期の好古堂店舗」とあるが、この言い方は、この絵が昔日を懐古して描かれた想像画であることを表している。
 そして大正初期は、光太郎自身、琅かん洞をやめ、3年には長沼千恵子と結婚、新生活を始めた時期にあたる。
 はたして、この建物は同一のものであるのか、ないのか、この年代が正しいのか、正しくないのか、二つの絵の中には、描いた人の真実がきざまれていたとしても、事実はどこにもきざまれていないかもしれないのだ。
 大正が正しいとすると、好古堂は二丁目に転居しているから、琅かん洞とは違うということになる。もし、大正が絵師の記憶違いで、明治後期の印象であるなら、琅かん洞と同じ建物であった確立は高いということになる。
 いずれにしても琅かん洞が、今までにまったくない、個人経営の芸術展示場として、神田淡路町に花々しくデビューするのに際し、昔の浮世絵店を改造したと考えるのは、もし想像だけで終ったとしても楽しいではないか。

青の洞窟
 ヨーロッパから帰ってきた高村光太郎は、日本の美術界に新風を送り込むべく、新芸術の拠点として「店」(画廊)をつくろうと考えていた。
 開廊に至る前月、友人の彫刻家荻原守衛(おぎわらもりえ)にあてて次のようなハガキを寄せている。
「例の彫刻は出来た相だな。フト忙しいので御無沙汰している。僕は4月の中旬に関西へ出懸ける。店はまだ出来ぬ。いつかの子供の首を鋳金にして呉れないか…」
 荻原守衛は、号を碌山(ろくざん)といい、光太郎と同じくロダンの影響を濃く受けついでいる。ところが開廊と同じ4月に、光太郎はこの盟友の死の報を手にしなければならなかった。
 ヨーロッパで共に学んだ日本の彫刻界の二つの星。その一つが消えた。
 そして琅かん洞の誕生。西洋の自由の息吹を、日本のカルチェ・ラタン「神田」の中心にすえようとしたのだ。
 琅かん洞の名付け親はまず光太郎自身だと思われる。
 琅かんは中国産の青い硬玉であり、画廊開設の挨拶広告を見ると、琅かん洞を「グロッタ・アズラ(青い洞窟)」とかいている。
 これはイタリアはナポリの名所の一つ。海に突き出た洞穴の中へ入ると、青い波のカーペットが四囲に反射して、さながら、自然の変幻のうちの青だけを抽出したかのような異界を思わせたのだろう。

海の色、太陽の色
 釣りをする人はまず最低半日は海で過ごすだろうが、水平線の一直線だけが変わらぬ唯一のもので、そのほかは風の強弱と向き、雲、そして波の動きなど、欲ばった脚本家が、地球上のあらゆる生物を総登場させたような自在な変化を見ることができる。
 海と空、そして琅かんの青。同じ青でも絵の具の場合はすべて人工の色といっていいだろう。人間が決めた色の典型なのだ。母親が子供の絵を見ていうだろう。「太陽は赤なのよ。緑の太陽を描くなんて…この子は」。

北海道へ
 光太郎の琅かん洞時代前後は、波瀾に富んだ光太郎の生涯のなかでも、最も清濁混在の色彩にあふれた時期といっていいだろう。
 開廊は明治43年4月15日だが、同じ月に雑誌『スバル』に「緑色の太陽」という評論を発表した。「人は案外下らぬところで行き悩むものである」で始まるこの論文は、「人が『緑色の太陽』を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりだ…自分の思ふまま見たまま」を表現してもいいのではないかと説く。
 事実、琅かん洞には実験的な光太郎の作品が並ぶかと見れば、興福寺の天灯窓や光雲作の「雀」が並び、与謝野晶子の短冊がかかるといった具合であった。また、正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里などの個展が開かれた。
 しかし赤字経営はぬぐいがたく、開廊よりちょうど1年の明治44年4月15日に大槻氏に経営を譲り、光太郎は自立すべく、すさんだ心の糧を北海道開拓地のバター製造にかけて、旅立ってしまった。
 その後、琅かん洞ではさまざまな展覧会が開かれた。夏目漱石の挿絵を描いた津田青楓、岸田劉生、藤田嗣治、そして、光太郎と運命的な出逢いをする長沼智恵子の「団扇(うちわ)絵」などが並べられた。
 そして、再び光太郎は神田に姿を現すのだが、そこで手にしていたのは北海道での失敗という思い出だけであった。




中西たかき フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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