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神田資料室

KANDAルネッサンス 18号 (1991.07.20) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(7)

藤井康男

 今回は少々大風呂敷的話題。日本はいま世界一の経済大国。そのGNPは全人類の一割。東京はその又一割強、千代田区はその又々一割。つまり言ってみれば千代田区は人類の富、すなわちGNP0.1%を持つ全世界で一番の豊かな地域なのである。法人会の黒字率も62%と全国平均(52%)を遥かに抜いている。名刺に本社・千代田区神田とあるだけでよそ者は超優良企業と思い込む。東京都と千葉県の境界では、道一つへだてて地價が五割も違う。
 知人の銀行員が東京へ転勤になり、これでやっと住所東京都と書けるようになりましたと、嬉しそうなあいさつ状をよこした。一瞬あきれたが、考えてみると生まれてから無意識に住所神田と書いてきた我々神田っ子には、その有難味はわからない。もう空気のようになってしまっているからである。しかし、人によっては大金を払ってもこの「区民権」はノドから手がでる程欲しいのであろう。一方で、昼間人口百二十万を持ちながら、夜間わずか三万数千という日本一の格差は多くの問題をはらみ、これが違う土地であればとっくに荒廃し変質している筈のところ、神田の繁栄は一向おとろえるきざしもない。いったいこの原因は何であるのか。

 一世紀以上前、林子平は著書「海国兵談」に、「江戸日本橋の水はロンドン・テームズ河の水に通ず」と喝破した。江戸中期世界一の都市ロンドンより先に江戸の人口は百万を突破していたのである。
 いや、しかしもっと前十六世紀の終り頃、大軍を以て小田原を囲み、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、山上より全軍の配置を眺めながら、そばにひかえる徳川家康に、「ここより東三十里のところに江戸という天下を治めるに格好の土地がある。広大な平野と、大きな湾と大河の水運にめぐまれ、全国をおさえる地の利、天の利を持つ又とない地である。そこに都を置くのがよかろう」という謎めいた言葉を述べたという。秀吉の真意は不明である。今となっては何の意図でそんなことを言ったのか知る由もない。しかし秀吉は、以前に生前の信長に世界地図を描いた扇を献上している。晩年、朝鮮征伐を起こし失敗するが、彼にアレキサンダーやフビライやシーザーと同じ野望が無かったとは言い切れない。彼に世界征服の根據地を江戸に置く戦略があったとすれば、それを家康に言い残す可能性は考えられよう。
 その影響かどうか、家康は一六〇〇年関が原の勝利のあと一六〇四年、江戸に幕府をひらく。徳川三百年の礎石を不動のものとしたのである。しかし、家康は鎖国を断行する。先輩信長、秀吉の時代の教訓を生かしたのである。
 最近の学説では、この鎖国が日本を欧米の植民地対策から護り、三百年の文化熟成をうながすことにより、今日の無類の日本人的性格を形成した最大の原因であるという。日本は確かにアジアで只一国諸民地にならなかった。そして只一国近代的資本主義社会の構築に成功した。そして二十一世紀に向かって東京は世界経済の中心になろうとしている。秀吉・家康の夢はいま数段上のスケールで実現しようとしているではないか。
 地球上の日本の位置は、宿命的な意味を持っている。北緯三十度から四十度、東経百三十度から百四十度の四角の中に日本列島がピタリとおさまる。水清く豊かで四季花が絶えず、海山の産物にめぐまれ気候温暖、最も人類が住むにふさわしい。そこに単一文化、単一言葉、単一字数(少々問題があるが)の民族が有史以来の平和を特に近世三百年保ち得たことは、人類史上の奇蹟ですらある。

 それには「水」が大きな役割を果たした。日本も江戸も神田も「水」なしには語れない。古来日本列島の南は、黒潮により外敵の侵入が不可能だった。日本海・東シナ海もおだやかな海ではなく、簡単に大陸からの侵攻はできなかった。フビライの大海軍も元冦の役で全滅し、日本文化最大の恩人ともいうべき、鑑真和上も四回難破し、盲となって五回目に来日をやっと果たした。それにもかかわらず、大陸から文化だけは渡来し、日本文化の底流となった。佛教・漢字・漢方・諸制度・紙・茶・とうふ・しょうゆにいたるまで今日の日本文化のルーツはことごとく大陸であり、その中には、西方よりシルクロードを通じもたらされたものも多かった。正倉院御物こそその最大の物証である。日本は東西交流の壮大なシルクロードの終点でもあったのである。文化は渡来伝承により洗練される。考え方を変えれば、最も貴重なもののみが伝えられ、今日の日本文化を熟成させた。この海流の防壁が沿岸では巨大な物証ルートになる。
 北前船は、古くからエゾ日本海・畿内のハイウェイであった。松前のコンブが京都の味のベースになり、太平洋側は千石船により灘の銘酒が江戸に運ばれた。当時の百万都市江戸は一大消費都市で、日本中から開運により高価なもの、上等なものはすべて江戸へ集まった。京大阪の上質な絹・油・酒なんでも江戸へ「下った」。質の悪いものは江戸へ持って行っても売れない。「下らない」の語源はここからだという。
 江戸は正に水の都であった。坂東太郎の利根川は物流の動脈であり、多摩川は江戸の命の水で絶えることはなかった。江戸初期すでに驚異の水道工事多摩川上水がつくられ、神田上水も百万市民に上質の水をめぐんだ。河岸には、ぎっしり倉が並び、船ははげしく往来した。戦前の隅田川や神田川を知る人は河岸のながめを忘れまい。巨大物流のストックはすべて河岸の倉であった。八百八町は堀割りでむすばれ、水運は江戸経済の血管であったのである。

 当時の資料に、「江戸疫」という不思議な病のことが出てくる。参勤交代で田舎から江戸へ来てしばらく江戸にいると、ムクミ、息切れ、心不調の症状があらわれ、そのままいると死ぬが国へ帰るとすぐ治るという。江戸の米が悪いからだという。のちに判明するが、湿気のある河岸の倉で保存すると古米にカビが生える。それと白米食によるビタミンの不足が疑われた。しかしこれは、いわゆるカッケではなく、米のカビの毒素「アフラトキシン」が原因だということが今日わかっているが、当時はそんなことはわからない。国に帰ると治る不思議な「江戸疫」ということになっていた。アフラトキシンは黄変米の毒素と同じだった(覚えている人もいるだろう。戦後援助で輸入した古米から強烈な肝臓毒が検出された)。それ程に腐る程の大量の米が江戸に集まったのである。そしてそれは、すべて水運・海運によったのである。
 大阪は水の都というが、今日の状況をみれば東京のような発展の条件はなかった。京都も同じで、東京一極集中が叫ばれているが、首都が東京以外だったら今日の日本経済は果たしてどうなっていたか考えてもみないで気軽に遷都論などよく言えたものである。神田の繁栄も宿命も未来もすべて同じで、歴史的事実は過去だけを語るものではない。そこには、未来への大きな教訓がかくされているという事を言いたかったのである。
 神田から川は消えつつある。時代の流れは物流のルートを水から道路に変えたためである。しかし、江戸や神田は水なくしてその文化は語れない。水の持つ意味は変わりつつあるが、人間と水は永久に縁は切れない。東京の水道には一つの神話がある。すべての水がおかしくなっても、一つの水系だけは永久不滅であるという。そしてその水は抜群の水質を持っている。古い鉄管が水質浄化の作用をするから、その水系だけは今のまずい東京の水とは全く違い、この水でウイスキーの水割りをつくると考えられないくらい美味な水割りができるという。その場所はちょっと申し上げられないが、たしかにそこの水道は違うのである。真疑の程は保証しかねるが、その水系は一部神田を通り、松の緑の彼方につながるものだという。二十一世紀の世界は人口爆発で、二〇五〇年に百億を突破するという。世界的水不足はもうすぐそこまできている。江戸を創り、神田を栄えさせた水は次には別の形で論じられることになるだろう。




藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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