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神田資料室

KANDAルネッサンス 16号 (1991.01.18) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内(かんだはりまぜひとりあんない)1

消えた幻の駅

中西たかき

 壮大なルネッサンス様式の駅舎が神田須田町にあった。東京駅がまだ完成を見ない頃、東京の関西からの終着駅は新橋駅。そして山梨県甲府方面からの東京の終着駅はこの万世橋駅であった。
 なぜこれ程大きな駅舎が大東京から姿を消したのであろうか。
 真暗なトンネルをくぐりながら、この駅の階上でナイフとフォークを持った手を置いて、ふと窓外の連雀町(須田町)のにぎわいに目をやる芥川龍之介のことが気になった。

ミミズとカラス
 神田須田町、交通博物館にトンネルがあるとは思ってもみなかった。裸電球一つ置いてさえないのだから、闇夜のカラスも手さぐり足さぐりで進まざるを得ない。そこに初めてもぐり込むことができたのは、今から7年も前のことだ。
 神田明神横にある天野屋も、地下に洞窟を一つ持っている。名物の甘酒を醸成する麹倉として現在も使われ、原料の麹の粒々が行儀よく並んで、夜も昼も寝て暮らしているのは有名な話だ。家やビルの下に巨大なミミズの住み処でもあるまいが、いつ頃掘られたものかよくわからないという。麹に眼が付いていないのは当然のこととして、動物であるミミズにも眼が無いらしい。「眼見えず」からミミズと呼ばれるようになったと、ものの本に書いてあった。
 明るい光に満たされた都会に生活していると、逆にミミズのような闇が魅力的に見える。ほの暗い闇を通り越して漆黒の闇をぼくたちが体験することはごくまれといっていいだろう。「少年ジャンプ」の集英社ビルなどは深夜を過ぎても明かりが絶えず、昔少年であったお父さんたちの奮闘努力によって神保町の不夜城と呼ばれている。
 都会は闇の価値を忘れてしまったのだろうか。

万世橋駅ホーム
 光が活動力の象徴だとすると、闇は休息のイメージだろうか。活動はエスカレートすれば破壊から再生産へと向かうが、休息は度を越えれば死のイメージにつながる。
 交通博物館の闇のトンネルは、実は、とうの昔に活動を停止していた。博物館の学芸員であった和田さんをたずねてここにきたのは万世橋駅の遺址を直接肌で感じたいからであった。
 神田川にかかる万世橋は誰でも知っているが、ここにミニ東京駅ともいうべき駅舎があったことを知る若い人は少ない。それも当然で、駅は昭和18年に閉鎖されてしまっている。その後に、駅の敷地をそのまま生かし、交通博物館が建てられ現在に至っている。
 これ程大きな駅がなぜ無くなってしまったのか。その謎を解きたい一心で、館内を案内していただいた。コツコツと冷たいコンクリートの床を踏む二人の足音がこだまする中、和田さんが突然、この奥に駅の通路がまだ残っているという。ぼくは別に暗い場所が好きで好きでたまらないというわけではない。しかし見たいものは見たい。頼み込んで扉を開けるとそこは漆黒の闇であった。薄暗いくらいならじきに眼がなれてくるのだが、まるでポケットに眼をしまい込んでしまったように何も見えない。
 ここはちょうど、上を通る列車の線路の真下にあたるのだ。音がする。今列車が通過した。持ってきてもらった懐中電灯でふと照らすと、石の手すりが見える。行商のオバさんが手を置いて休んだかも知れない。とにかく足を前に出す。すると前方に階段が立ち塞がった。出口がない。なんと階段の上部は天井につながっていたのだ。
「この上はホームです」と彼はいった。
 ぼくは対人関係についてはしつこくないのが欠点及び長所であるのだが、こういうことに関しては必要以上にしつこいというべきだろうか。現在使われていないホームは、線路と同様に見なされ立入りが禁止されている。またも頼み込んで、外に出ないという条件で天窓にあたる扉を少し開けてもらった。光だ。モグラが地面から外を窺うように、ホームの足元から顔を出してみた。鼻から30cm前にあるホームは雨風によってひび割れ、その向こうにいる赤い電球が、牡牛のように突進してきた。

須田町の宵闇
 交通博物館のトンネルにたどり着くまでに、ぼくにはいくつかの行き合いがあった。それは鉢合わせといったように突然向こうからやってくる。いつもそんな風に風が吹いていたように思う。
 その頃、昼めし屋は毎日変えていた。自転車があったから、神保町近辺ばかりでなく、昨日は九段下、今日は須田町と毎日浮気をしていたのはそれなりの訳があったのだが、天性の放浪癖が昼時になると華開いていたというべきであろう。
 自転車は今でも愛用しているが、タウンウオッチングには欠かせないツールだ。今はいつも横に杖を置く「きゃんどる」の主人だが、その頃須田町の松栄亭でばったり行き合わせたことがあった。それにしても神保町と須田町では歩けばちょっとした距離がある。一口に神田といっても結構広いし、失礼だが、御老体の身では…と思ったのだが、聞けば自転車でたまに須田町の匂いを嗅ぎに来られるということであった。須田町にはそんな魅力がある。遠方から運転手付で乗り着けて、そばを食してオフィスへ戻る社長もいる。かと思えば、初老の夫婦が一つ傘を畳んで暖簾をくぐる姿も、宵闇の須田町にとてもしっくりと調和していて、普段はあまり被りたくない他人の影響も、こんな日は良き影響に満たされているように思えたりする。

目抜きが残った
 オールドファンばかりでなく、最近では若い人達がこの街を愛するようになった。モダンなビルと暗い日本家屋の明暗のコントラストがほっと一息つかせ、ひとの愁眉を開いてくれるからだろう。
 鳥料理の「ぼたん」、あんこう鍋の「いせ源」、西洋料理の「松栄亭」、そばの「やぶ」「まつや」など老舗がひさしを接して在るのにもそれなりの理由があったのだ。この界隈は万世橋駅前の目抜きの商店街であった。それが、駅前の駅が抜けて、前の目抜きだけが残り、今焼け残ってここにある。昔、駅がここになければこの一角はこんな形で存在しなかったといえるだろう。また逆に駅が存在し続ければ、今のような暮色の街の姿はなく、大きな変転をとげているだろう。
 暮色は光に満たされた中で初めて生きてくる。薄暗い建物ばかりではどこか満たされない。かといって、一挙に夜も輝くばかりの建物にしてしまったら、なお満たされない思いが残るかもしれない。暗さと歴史にも価値を認めよう。それはちょっとした安心の奥行きを深めるかもしれないからだ。
 新旧の調和ほど難しいものはないが、いちばん求められているものも、古きものと新しきものの融合という点であろう。

マグロ参等待合室
 今はなくなってしまった幻の駅=万世橋駅の平面図を見てほしい。ハイテク情報化時代の今の駅と大きく異なっているのは、待合室の大きさである。事務室・駅員室すべてを合わせても参等待合室に及ばないほど小じんまりしているのに対して、乗客の待合室は壱等待合室、貳等待合室、参等待合室に少々小ぶりの婦人待合室まで付いているのだ。大トロ・中トロ・赤身のマグロではないのだから、1・2・3等の選別や、御婦人を狭い部屋に幽閉するというのは、ダンディズムの世界では痛快であっても、ナンセンスには違いない。
 しかしながら、失われた空間とそこに流れる時間は、今や垂涎のゆとりを感じさせる。
 それをぼくたちは田舎の駅に見ることができる。電車がなかなか来ないから寒い駅には暖かい待合室が要る。3分おきに15両連結の箱が来る都会には待合室は要らない。こんな単純な理屈で世の中が変わっていってよいわけではないのだ。
 まだまだ充分ではないが、都内の駅にも最近小さなコーナーが設けられ始めた。試行錯誤は当然として、すばらしい空間造りを目指している姿勢と、大事にしたいのは何なのか、ひとは何を求めて集まってくるのかを効率の前におさえておく必要があることの証明だ。

眼の位置が変った
 もう一つ、最近気になるのが天井の問題だ。万世橋駅の立面図は見ていないので、正確なことはわからないが、おそらくかなりの高さがあったことが想像される。
 例えば銀座を歩いても、天井の高い部屋を持つのは古い建物ばかりというのはなさけない。サッポロビールのライオンビアホールは煤で細部の装飾が古ぼけて見えないにもかかわらず、ひとは上を見上げ、眼を下げてまた話を交わす。天井の高い古い銀行へ入るとひとはまず行員の顔を見るのではなく、高い天井の心地よい装飾の方へ眼をやりながら、おもむろに全体を見渡すことができるのだ。
 現代の安易なビルの多くは照明過多である。天井は照明器具設置場所であり、低くてまぶしいから、ひとの目線が上へ行くことはない。
「自分の足元を見ない」今日の在り方は、こんなところから来ているのではないかと思えたりする。

芥川と「みかど」
 万世橋駅の2階はゆったりとした食堂があり、その名を「みかど」といった。本社は神戸市相生町にあったが、列車食堂経営ということもあり、営業範囲は日本全国に渡っている。青森・名古屋・神戸・下関・門司・博多・鹿児島とどちらかというと関西方面に強い。その他に東洋軒、今も上野にある精養軒、伯養軒、東松軒、共進亭といった経営6社があった。現在の日本食堂は昭和13年にこの6社が統合された時に発足したものだ。
 当時、新橋駅は東洋軒ににぎられていたから、関東地方の覇権をにぎるべく、第2の終着駅万世橋駅に「みかど」は進出した。
 作家芥川龍之介がH女に逢ったのは、万世橋駅2階の「みかど」で毎月開かれていた文学サロンであった。H女についてはなにやら怪しげな印象がつきまとうが、あまりよく知らないので、もめ事に興味のある方はぜひお調べいただきたい。
 このサロンは「十日会」といい、当時大久保あたりに住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場に、蒲原有明、戸川秋骨、正宗得三郎等が集まっていたが、やがて「メーゾン鴻の巣」から場所を移して万世橋「みかど」へと移っていった。それが大正5・6年から12年の大震災までの時期で、会費は1円ないし1円50銭。この頃に出入りしていたのが、菊池寛、久米正雄、田中純、そして芥川といったメンバーであった。大震災によって、万世橋駅にも火の手が及び焼けてそまったが、赤レンガの外壁や駅前の広瀬中佐、杉野兵曹長の銅像は無事であった。この後、このサロンは、銀座から赤坂に移った「プランタン」に再び集まるが、年齢の違い、仲間割れなどから自然消滅していった。

駅前交番
 万世橋駅はどうしたのかというと、当然復興は成ったが、昔の豪華な面影は微塵もなく、予算の多くは東京の表玄関である東京駅の復興に向けられたのであろう。
「汽笛一声、新橋を…」の新橋駅は、鉄道開業当時からの東京の表玄関。一方、万世橋駅は、今の中央線である甲武線の東京の表玄関として建てられたが、山手線開通、東京駅の誕生と共に玄関としての役割りを失っていくのである。
 現在、万世橋駅は無いが、お茶の水—神田—東京—新橋へ続く赤レンガアーチ橋で結ばれているため、万世橋駅の跡をたどるのはそう難しくない。交通博物館横に張り出している新幹線実物の隣りに電機のパーツ屋があって、そこから橋へ至るまでの赤レンガの壁が万世橋ステーションの終点跡である。機会があったらぜひ一度訪れてほしい。壁の前にある、小さな石造の小屋は、万世橋駅前でスリと置引きを、どんな理由があろうとなかろうと仮留置した交番であるのだから。




中西たかき フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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