KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

神田資料室

KANDAルネッサンス 15号 (1990.10.18) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(4)

藤井康男

 戦後の若者達は、今のように遊ぶことが多くなかった。焼けあとの中で、まず復興したのはヤミ市マーケットであった。神田駅のあたりが一つの中心だった。秋葉原の電気街に復興も早かった。パチンコ屋と喫茶店・一杯のみ屋がやたらと出来た。神田の古本屋街も割合早く復興した。新刊がほとんど無かったから何でも売れ、人出もすごかった。みんな活字に飢えていたのだろう。その頃のくらしをふり返ってみたい。もはや四十五年の昔である。

 昭和二十五年から千葉大学へ四年間通学した。総武線に浅草橋から乗り、はじめの二年は教養学部のある稲毛、あとの二年は千葉市の薬学部まで、毎日の朝のラッシュはその頃からすごかった。沿線の風景は、今からは考えられない荒涼たるもので、いたるところに焼けあとや焼けビルがまだ残り、千葉県に入ると畠や田ん圃でのんびりした田園風景が広がっていた。
 学校からの帰りは錦糸町で下りて、洋画の封切りを見るか、浅草橋の駅前にあった「インデアン」という喫茶店で友人とダベるか、秋葉原乗りかえで上野方面に出るかで、一番多かったのはお茶の水まで足をのばし映画を見ることだった。そして古本屋めぐり、神保町の裏にあった長寿庵というそば屋でそばを食い、又古本あさり、そして最後は三省堂近くの「ラドリオ」(今もある)でウィンナーコーヒーを前に親しい友達と文学論、人生論、音楽論をたたかわせた。時に神田日活の裏の音楽喫茶でねばることもあった。私の青春はこのあたりにあった。だからニコライ堂、湯島の聖堂、神田明神、それから須田町のショパン(ショパンしかかけない音楽喫茶、なつかしいことに今も場所は少し変ったが健在)、神田日活、巌松堂、そしてその裏のレコード店(たしかリズム社)、その他の何軒かのレコード屋、喫茶店、古本屋、三省堂、神田駅近くの大きなレコード屋蓄光堂(看板にヤスイカラヨクウレル ヨクウレルカラタカクカウとあったがウレルの点が落ちてワレルになっていておかしかった)、すべて我が青春の舞台であった。
 神田という街には古本屋と映画館とレコード屋がよく似合った。本当に学生の街だったのである。映画は一つの青春だった。そして我々の映画館はやはり下町だった。今回はこの中の映画、カツドウについてくり言を述べてみたい。

 昔は神田川の土手に映画館があった。子供の頃、この映画館で「大阪夏の陣」という映画を見せられた覚えがある。あんまりよくおぼえていないが千姫がきれいだったのと、城の焼けるセットのシーンがおそろしく子供心に残っている。この映画館のことを大人達は「ドテ活」と呼んでいた。日活系というより土手のカツドウという意味だったようだ。
 私の記憶は戦後になる。神田日活で見た「荒野の決闘」はよかった。ジョン・フォード、ヘンリー・フォンダ、ヴィクター・マチユアという顔合わせであるから、これは映画史上に残る名作である。この映画の主題歌、なつかしのクレメンタインは何と美しいメロディであったことか。
 当時は神田には映画館が何軒もあった。封切館だけでなく、夕方仕事を終って一風呂あびて家族連れ立って行く風景がよく見られた。戦後しばらくは戦争中見られなかったフランス映画や、アメリカ映画のリバイバルを見るのに結構忙しかった。ダニエル・ダリューの「うたかたの恋」を見た時は、多感な年齢のせいもあって一大ショックだった。世の中にあんなにきれいな女性がいるなどと信じられなかった。同じ空気を吸っているなんて、生きているのがいやになった。今考えればダリューの最盛期でもあったし、だいたい白黒映画はカラーよりもハイ・キー調になるから、女は夢のように美しくうつることをあとで知ったが、このフィルムは何回見たか数えきれない。今VTRで見てもあの時の感動はもどらない。「オーケストラの少女」(デアナ・ダービン)「会議は踊る」「禁男の家」「望郷」「商船テナシティ」「未完成交響曲」「駅馬車」「ノートルダムのせむし男」「ターザン」シリーズ、「美女と野獣」「わが道をゆく」。すべて記憶に焼きつくように残っている。

 戦時中ほとんど禁じられていた文化は私にとって、映画と古本とレコードを追っかけまわすことで満ち足りていた。古書街にも毎日のように通った。そのすべてが、神田界隈でこと足りていたのだから幸せだった。映画青年などという言葉もあったくらいで、学生で映画館に通わない者はいなかっただろう。「キネマ旬報」や「映画の友」をむさぼり読み、すずらん通りの入口近くにあったブロマイド屋にもよく行った。あの頃の人生は、映画の占める部分が今考えてみるとおどろく程大きかった。というよりも、映画は人生そのものだったのかも知れない。
 映画館の中に入り暗くなると、そこはもう外の荒れ果てた街ではなく、うっとりするような別天地だった。シリアスな名画を見ると一人考えこんでしまった。友達との話にも映画がよく話題にのぼり、はては人生論、恋愛論に夜のふけるのも忘れた。
 最近「ニューシネマ・パラダイス」という映画を見た。舞台はコルシカの小さな町の映画館。映写技師と町の映画好きの少年(のちに大監督になる)の心暖まる交流が中心であるが、まさに昔の日本の下町の映画館そのままで、「オセンにキャラメル」という声が聞えてくるようである。隣町の映画館から自転車で次のフィルムを持ってくるところや、映画に感動する町の観客など、昔を知るものにはなつかしいシーンが一杯である。途中にかつての名画の名カットがふんだんに出てくるのも嬉しい。——やがてやってくるアメリカ映画の中に出てくるアメリカ市民の生活は、まるで当時の我々には夢のようだった。ピカピカの車を若者が乗りまわし、美男美女がたわむれ、豪華なインテリア、身のたけ程の冷蔵庫からおいしそうな食物や飲物がふんだんに出てくるし、ケーキもビフテキもとても当時は日本人には手がとどかなかった。今の日本は当時のアメリカ以上になってしまったが、あの頃の若者達は映画館でたまゆらのアメリカ生活にあこがれ、夢を見ることで満足していたのである。
 映画が終わって夢がさめて、外の荒涼たる世界にもどった時のあの言うにいわれぬ味気なさ、淋しさを想い出す。一番ショックだったのは、男女の濃厚なキスシーンである。そんなことを言うと今の若者は笑い出すだろうが、あれは当時の我々にとって大変ショックだった。戦時中は、キスシーンはおろか男女が手をつなぐシーンさえなく、昔は映画館の席が男女別だったのだから大変である。「或る夜の接吻」という邦画が封切られて大さわぎになったくらいである。

 やはり映画館は下町によく似合ったのであろう。映画が教養だとか人生の糧だとか言うと今では笑い出す人がいるだろうが、ちょうど歌舞伎や落語や講談が江戸庶民の娯楽であると同時に、教養であり道徳の基準であったのと同じく、あの頃楽しみの少ない戦後の日本では、映画が果たした役割はそれに似ていたのかも知れない。「風と共に去りぬ」などという大作は、まるで電気ショックのように我々の人生観をゆるがしたものだった。私の同年代の人々の中に、映画なしの青春は考えられなかったと言う人は少なくないのである。
 今、寅さんシリーズなどを見る時、あの頃の江戸の下町に育ったものはやたらなつかしく、当時の風物や生活音に感動するのも当然なのである。露路を入ると軒先に朝顔やおもとがゆれ、夏は風鈴の音が聞えた。夕方豆腐屋のラッパや夜中のチャルメラの音、市電のひびき、号外の音、金魚売り。夏は夜あちこちで夕涼みの花火が光り、という具合にとめどなく回想は広がっていくのである。
 今、人の少なくなった神田に何よりも淋しいのは失われた季節感ではないだろうか。果せぬ希望で無理な願いかも知れないが、どこか一画に古きよき下町を再現した公園がつくれないものだろうか。郷愁などは一文の価値もないのかも知れない。しかし、それと共に失われてゆく人の温かい心や心なごむ風俗習慣のほうが、もっと惜しいという気がしてならないのである。




藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
ページの先頭へ

戻る

ホーム ホーム