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神田資料室

KANDAルネッサンス 14号 (1990.07.10) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(3)

藤井康男

 今年の神田祭りは昭和帝御崩御により一年のびたが、平成二年「即位の礼」「大嘗祭」の年を記念し盛大に行なわれた。由緒ある諫鼓(かんこ)山車の復活、将門公ゆかりの相馬野馬追の騎馬武者など大いに盛り上がりを見せた。NHK衛星放送も、二時間近くの生放送を行った。
 私事であるが龍角散の藤井家は私で四代、氏子総代をつとめ代々豊島町の御神酒所を会社の正面に開いていたので、幼い頃から「お祭り」の記憶は少なくない。
 当時の街は、今とくらべるとおどろく程静かで車もあまり通らず、市電だけが一日中チンチンと走っていた。道路の渋滞などという事は考えられなかった。交通のほとんどは自転車で、多くはリヤカー(うまい言葉である。日本製英語の傑作であろう)を引いていた。人力車も馬力(荷物馬車)も時々見られ、道路に馬糞が落ちていた。その豊島町の交差点で、お祭りの時だけ人でいっぱいになるのである。千貫みこしのお通りである。それは勇壮な見ものであった。威勢のいい若い衆が肌ぬぎで五百人はいただろう。中には見事な彫りものを自慢げに背いからすのもいた。かけ声は今と違い、ワッショイであったから迫力もひとしおであった。
 二階の窓から見ていると、お神輿はぐるぐる何度も交差点でもまれたあと御神酒所に落ちつく。店の中と外は、お茶やお菓子の接待で戦争さわぎになる。残念ながら今はこの千貫神輿は見られない。戦災で焼け、今再興してもかつぎ手もいないし交通事情が許さない。
 明神さまの境内をはじめ、街中のにぎわいは子供心にもはっきり覚えている。ふだんの生活が静かであるから、見る物聞くもの祭の日はすべて違ってみえるのである。

 今の神田は、あの頃にくらべると隔世の感がある。昼間人口百二十万(千代田)、そのさわがしさは大変なものである。しかし、日が暮れると一挙に人口は四万以下になってしまう。昔なつかしい市場もお風呂屋も寄席も映画館も成り立つ筈がない。
 日曜日の豊島町界隈は、まさにゴーストタウンである。ユトリロの絵のようだなどとのんきにかまえているわけにはいかない。街そのものが消え去ろうとしているのである。人口の呼びもどしや新しい街づくりが、区内の各所でいろいろなグループによって提案され、対話や議論が湧き上りつつある。そして私は、いささか観念的だが神田祭りがさかんなうちは、街の将来は暗くないと考えている。
 全国どこをみても、祭りが盛んなところは絶対に地盤沈下や衰退を起こすことはない。京都も仙台も金沢も博多も長崎も、更に多くの地方都市もみなそうである。なぜなのだろう。
 徳川期から市民の生活は、すべて幕府の定める法度によって決められたが、祭りこそは年一度の無礼講で、士農工商の別なく、こぞってハレの日を祝うカタルシスで、一種の民衆の不満のガス抜きであった。「おかげ参り」という不思議で無気味な社会現象に、幕府は散々手を焼いた。何度禁令を出してもおさまらず、遂に認めざるを得なかった。祭礼公認のもとはこのへんにあるのではないだろうか。
 伝統行事となった祭りは段々盛大になり、出費もかさみ、参加者の名誉意識、特権意識につながった。つまり祭りを主催し、世話し、監督するのは氏子の中の実力者名望家でなければならなかった。祭りを仕切ることは一家一門のほまれであった。そしてそれは祭りに参加することが、一種の資格で権利であるところまで拡大した。「神田っ子」「江戸っ子」の誇りの源は、祭りの参加権であったのである。だから、祭りの日は街全体が変ってしまうのである。すべてが「神田っ子」であることのパフォーマンスであって、そのための出費をためらう者は馬鹿にされ、嫌われ、村八分に近い扱いを受けた。野暮な金持ちの家に神輿がわざとぶつけられた。そして祭りのにぎわいは生きていることの証しでもあり、江戸っ子、神田っ子同士の連帯を確認する行事でもあったのである。地域でのほとんど全員一致の協力がなければ、祭りは成功する筈がないのである。地元の活力のバロメーターでもあるのである。
 人口減でも今年の祭りがにぎわったのは、全員等しく感じた危機感である。特に神田明神の若き宮司、大鳥居さんはその持ち前の企画力、指導力、実行力のすべてを十二分に発揮され、大成功のもとをつくられた。そして地元の企業、つまり法人が大きな協力をした(神田法人会・一万一千数百社・実質的に日本一)。金も人も熱意も惜しまなかった。そして氏子の多くは区外居住者だが、この日ばかりは百%神田っ子にもどってしまった。

 或る親しい銀行の支店長が、地方から東京の本店に転勤になった。久しぶりで会った彼は、眼を輝かせて「社長、これでやっと年賀状の住所に東京と書けるんです。この喜びわかんないでしょうね」といわれた時は心底おどろいた。或る人から、東京神田に本社があるというだけで、信用はぐっと違うし格が数段上ると聞いて又びっくりした。
 そういえば、人に聞かれて何気なく、五代目の江戸っ子で神田生まれの神田育ちと話しただけで、相手の態度がガラリと変ったことが何度もある。
 つまり、神田以外の人々は何とか神田に住みたいと思い、企業の多くは、いつしか神田に本社を置きたいと願う例が非常に多いのである。そして、面白いのは「神田っ子」はふだんはそれを全く忘れている。それが粋であり、神田っ子の意地であり、ダンディズムなのである。江戸っ子風、神田風をキザにふかす奴は田舎者なのである。休日の原宿、六本木にウロウロしている車のナンバーを見ればすぐわかる。生粋のパリジャンは、シャンゼリゼなど歩かない。
 つまり神田に住むのは個人法人を問わず、一種の権利なのである。それは信用状であり、ステータスシンボルであり、粋であることの証明であり、この上なくカッコいいことなのである。これを私は「区民権」と呼びたい。アメリカのような自由な国でも、市民権を得るのは大変なのである。それはその事により、受ける利益と保証が非常に大きいから我も我もと取りたがるからである。「神田っ子」の権利も全く同じことではないか。
 このような中華思想は、往々にして排他思想につながる。京都や金沢の閉鎖性のようなものは、全国いたるところにある。名古屋などは、大阪商人がいやがる程よそ者を受けつけない。実は、中華思想にまつわる排他性は、コンプレックスの存在の証明である。江戸っ子、神田っ子にコンプレックスは無い。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりで腹わたは無し」などと自嘲的に言うのは、自信の裏返しである。
 祭りの日、衛星放送で江戸屋猫八さんと対談した時も、江戸っ子・神田っ子論がさかんに出た。粋・思いやり・あきらめのよさ・人情・義理・やせがまん・気っぷのよさ・威勢のよさ・見栄っぱり(子供っぽいから救われる)・気前のよさ・清潔・しゃれっ気・皮肉・ユーモア・短気・歯切れのよさ、こんなに多くの形容詞がつく土地がほかにあるだろうか。つまり本物の江戸っ子・神田っ子の資格審査は、えらくうるさくむずかしい。よく調べると、これを全部クリアする人はあまり見当らない。あたりまえである。こんな条件を満たしたら、本物の助六になってしまう。江戸っ子・神田っ子のイメージは庶民文化のシンボルで、すべての江戸っ子のあこがれのイメージなのである。

 法人も区民である。神田っ子の資格審査をクリアーしなければならない。実は今年、神田祭りに先がけて神田法人会創立四十周年を祝うイベントを、何と神田明神の境内全部をお借りして挙行した。二千名は来てほしいと考えていたら、何と五千五百名も来られ、一時パンク状態で多くの方に御迷惑をかけてしまった。しかし、そのプロセスは神田法人会がほとんど全員、古き良き神田っ子精神を持っていたことを最も劇的な形で証明した。全員が燃え、組織ぐるみの大作戦が慣れない事であるのに、一糸みだれず進行した。くたびれ果てた我々の心の中に残ったものは、何とも言えないあと味の良さだった。
 神田に生まれて良かった。神田に住んでいてよかった。そういう共通の想いが、あの大成果を生んだのである。
藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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