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神田資料室

KANDAルネッサンス 13号 (1990.04.10) P.6〜7 印刷用
私説神田豊嶋町

神田探訪(2)

藤井康男

 神田に生まれ神田に育ったから神田をよく知っていると思っていたのは大変な間違いであることがわかったのは、のちにほかの土地を知ってからである。
 考えてみれば、昔は生まれた土地を離れることなく一生過した人は多かった。パリで知り合った、絵に描いたような靴みがきのパリジャンのおじいさんは、生まれてからパリを出たことがないと知って驚いたことがある。自分の生まれた土地はその人にとっての全宇宙に等しいから、このおじいさんの毎日見るエッフェル塔も、シャンゼリゼーも、モンマルトルも、シャンソンも、全くはじめからある生活の中の点描にしか過ぎないのだろう。しかし、同じ物がパリにあこがれる観光客にとってはめずらしく、心ときめく存在に変るのである。
 人間は、ほかのものと比較することにより、はじめてそのものの価値を知る生き物なのである。従って、神田の良さやすばらしさを知る人は、そういった要素のない他の土地から来た人の方に多いのかも知れない。幼い時から何となく見てきた神田の風物も、一つ又一つと消えていくこの頃になって、はじめてその良さがわかりあわてて見まわる始末である。更に、そこに住む人の心ばえやくらしにいたっては、形のないものであるだけにもっとわかりにくい。

 江戸は三百年の間、大小とりまぜて四百回以上の火災の洗礼を受けている。ほとんど毎年一回以上で、大火といわれるものも五年に一回は起っている。火事は「江戸の華」などと言うが、このことが江戸、特に下町の気風をつくり上げてきたであろうことは充分考えられる。世界にこういう都市は二つとないであろう。「宵越しのゼニは持たない」とか、町火消し、火事見舞いなど、そのしるしはいくらでもある。
 店に沢山提灯がおいてあった。火事があると、若い衆がハッピを着て、それを持って近火お見舞いにかけつけるのを子供心に覚えている。もう十五年ほど前、不始末なことだが、ボヤを出したことがある。地下倉庫の薬品が発火し、地下だけを焼いてすんだが、夜中のことで大さわぎになった。知らせを受けてかけつけた時は、幸いに下火になり延焼のおそれはなくなったが、おどろいたのは近所の方々の対応である。火もおさまらないうちに、次々とお見舞のお酒がとどく。早くもおにぎりのたき出しが並ぶ。そのす早さ、見事さはおどろくばかりであった。

 昔、こんな話を聞いたことがある。ある大店の主人が所用で外出した。風の強い日で、店の方角から火が出てあっという間に大火になった。急いでもどると、火元はなんと自分の店であった。ぼう然と立ちすくむ主人のところへ、息子と番頭がかけ寄り「大旦那様、申しわけありません。しかし御安心下さい、倉は全部残りました」と告げた。主人は血相を変えた。「とんでもない、人様にこんな迷惑をかけて自分の倉だけ残すわけにもいくものか。全部倉をあけろ」と言うが早いか、まだいぶっている焼けあとに飛び込み、止めるのも聞かず自分で次々倉の戸を開けはじめた。
 江戸の商家は火事にそなえて、毎日夜になると店に広げた商品を倉にしまう。芝居などで商家の店の正面に倉の戸が見えるのはそのためである。息子と番頭が言ったのは、店は焼けたが商品は残ったので明日からの商いにさしつかえはないという意味であった。火が出ると、倉の戸を閉め味噌で目ぬりをしてしまう。空気が入らず壁が厚いから、中は火がまわらない。関東大震災の時、金庫の中で助かった書類を見たことがある。コップ一杯の水を入れておくとなお良いという。しかし、まわりから熱せられているから、熱いうちに戸を開ければひとたまりもない。いっぺんに火を吹くのである。あとで聞くとこの主人は、開いた戸の前で火にあおられ死んでいた。しかし、その顔は安らかでほほえみさえ浮かべていたという。壮烈な話だが、まさに神田っ子の心意気である。
 実は、私のところは震災の時そういった理由で倉庫が残り、一時の仮住居に役立ったという。しかし、空襲の時は違った。翌朝見ると、倉庫の上から煙が吹き上っている。あとでわかった事であるが、何と屋上に大穴があいて、そこから空気が入り焼けたらしい。アメリカの焼夷弾は、何十本かの筒を束にしてあり、空中でとび散る。その束ねた親玉の下の重り(七〜八十キロはあった)が落ちて、穴をあけたとわかったのである。あんなものが降ってきてはたまらない。

 江戸は火事のたびに生き返り、そして発展した。一六〇三年、家康の江戸開幕後五十年もたたず、人口は百万を突破している。当時の世界最大都市ロンドンと同じである。江戸っ子は火事なれしていて、焼けるとすぐに家をつくりなおした。関八洲はおろか、日本中から材木が集り、商人は巨富をなした。職人もいい手間になるので、みんな江戸へ集まった。大工左官が江戸へ行くことを禁令によって止めた記録が、多くの藩に残っている。まことにすさまじい生活力。そしてあきらめの良さ、人情、気っぷというべきであろう。私は思うに、江戸の下町の気風のさっぱりしたところは、このあたりから来ているものではないだろうか。
 今に残るさかんな祭りも、復興の景気づけの意味があったのだろう。「江戸っ子は五月の鯉のふき流し、口先ばかりで腹わたは無し」といわれたが、案外底にはしぶとさ、ねばり強さがあるのではないだろうか。

 子供の頃、ビルの屋上に上ると見わたす東京で目立つのは、消防署の火の見やぐら(今は全くない)と、風呂屋の煙突だけであった。夜よく聞こえてくるのは、消防のサイレンであった。昭和のはじめは、たしかにまだ火事は多かった。戦災のあと東京は、新宿や渋谷、浅草などから復興がはじまった。その中でも、神田の駅周辺と書店街は早かったように思う。まだ出版も本調子でない頃に、古書街には焼け残った本がどっと並び、ほとんど毎日のように岩波文庫の古書などを探しに通った。
 神田日活に次々リバイバルの洋画がかかった。ジョン・フォードの荒野の決闘、ヘンリー・フォンダ、なつかしのクレメンタインは忘れられない。音楽喫茶も私の青春の重要な一ページである。
 学生街は物の無い時も活気があった。ウィンナコーヒーが名物の「ラドリオ」では、よく著名な作家や評論家のくつろぐ姿が見られた。戦後の日本文化は大げさに言えば、神田古書街からはじまったと言ってもオーバーではないだろう。その頃は活字に餓えていた。銀座の教文館でライフが売り出される日は、暗いうちから長蛇の列ができ、売り出されたばかりのリーダースダイジェストはすぐ売り切れた。しかし神田には活字文化がいち早く復興していたのである。豊島町から朝早く神田駅まで歩き、地下鉄で渋谷、東横線で府立高校まで通ったが、道の両側は焼けあとかバラックばかりであった。しかし不思議な活気があり、街は見る見る復興した。今同じ道を歩いても全く当時を想像することはできない。
 世界で戦争に敗け、こんなに早く復興した街が他にあるだろうか。今日の経済大国たる素質は、昔からあったのかも知れない。戦いに敗け、焼けつくしたことが復興の原因だなどと、外国人は信用するだろうか。

 今神田は街づくりの話題でゆれている。一方では地価の急騰により、次々にビルが立つ。昼間人口百二十万、夜間四万というのも異常である。世界の国々を見て歩き、我が東京、神田と比較する。きれいな街、クラシックな街、歴史そのものの街。いま世界の大都市で、百年前の建物が残っていないのは東京だけという。四年前に訪れたポーランドのワルシャワやリトアニアのヴィリニョスなどは、全くあとを止めないまでに破壊された昔の街を、それこそレンガ一つにいたるまで忠実にきれいに復元している。はじめは驚くが、そのうち街が死んでいるのに気がつく。表通りは復元されたが、家の中はもはや住居ではなく博物館、土産物屋、オフィスなどで、人の住む温かさがない。本当の生きた街は一方で破壊が行なわれ、一方で建設がなされ、常に生きて流動するものだとはじめて気がついた。その意味では、神田は死んではいない。それどころか、別の形になりつつ強く未来に適応しようとしている。




藤井康男 株式会社龍角散社長、理学博士
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