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KANDAルネッサンス 10号 (1989.07.15) P.11 印刷用

神田学会レポート・6

神田の街づくりの歴史と発展について

遠藤達藏

 江戸の街づくりは、まず神田山(現在の駿河台)の切り崩しから始まったといわれています。
 当時の地形は、現在の日比谷辺りが大きな入江、三崎町から飯田橋・九段下にかけては沼地となっており、南側には遠浅の海が広がり、北側は武蔵野の原野となっていました。
 このような江戸湾の奥の、どちらかといえば辺境ともいえるような所に江戸城を建て、幕府の本拠地としようとした徳川家康の着眼は大したものであると思います。
 しかしながら、その目的を達する為には大土木工事をする必要があったのです。
 神田山の土で、現在の両国橋辺りから日本橋浜町・中洲、そして京橋方面へかけての海を埋め立てました。その時の神田山は、現在の外神田、秋葉原駅の辺りまで張り出していたといわれています。
 また、現在の日枝神社の辺りの高台も切り崩して日比谷の入江を埋め、江戸の街の礎(いしずえ)を築いたのです。
 さらに東北方面から江戸城を攻撃された場合のことを考え、神田山を分断する掘割の大工事を伊達正宗に命じて三年がかりで完成させ、平川(現在の日本橋川)の水を隅田川に分流したのです。この掘割が神田川となるわけですが、当時平川が飯田橋から竹橋の辺りを経て日比谷の入江に通じていて、毎年氾濫し城下を水浸しにすることを防止するためのものでありました。
 そして元和(げんな)二年、現在の大手町・将門首塚の所にあった神田明神が今の場所へと移って来たのです。
 そのような経緯から、神田山の土で埋め立てた所が神田明神の氏子地となりました。
 江戸城築城に際しては徳川家は一切費用を出さず、大名達に全ての工事を分担させ、戦(いくさ)と同じようなやり方で工事にあたりました。実際、当時の土木工事は「何処何処を攻めてこ」という命令と同じだったのです。
 このようにして江戸の街は作られていきましたが、当時江戸に集まった約十万人もの人夫達の食糧は、現在の内神田一丁目辺りにあった魚河岸と、神田多町にあった青物市場、通称「やっちゃば」とで賄われていました。
 魚は江戸湾から平川を船で上がり、青物は荷車によって埼玉方面から運ばれていました。小伝馬町や大伝馬町などは交通のターミナルとして栄えてきたのです。
 河岸はその後、日本橋から現在の築地へ移り、青物市場も秋葉原から大井へ移転しましたが、どちらも発生の地は神田なのです。
 また、遊廓として名をはせた吉原も、現在地へ移る前は日本橋の吉町(よしちょう)という所にありましたが、もともとは今の千代田区立体育館の辺りにあった「丹前(たんぜん)風呂」の湯女(ゆな)から始まったといわれております。
 すなわち、神田という街は様々な物資やサービスの供給地であったわけです。
 そしてその後、神田は職人街、日本橋は商人街として分化し発展していったのです。

 これからの街づくりを考えていく上においては、もはや神田は神田だけでやっていくという時代ではなく、千代田区全体の問題として考えていかなくてはいけないと思います。
 そのためには、ただ住んでいる人の力のみに頼るのではなく、地域の企業を巻き込み、総合力を結集する必要があると思います。そして企業側も「住民」としての立場で考えていくべきではないでしょうか。

*今回のレポートは去る5月18日に行なわれた神田学会の講演から抜粋したものです。


遠藤達藏
13代目の神田っ子。神田明神氏子総代であり、東京都中小企業団体中央会・副会長や将門塚保存会の副会長も務める。
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