KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

神田資料室

KANDAルネッサンス 10号 (1989.07.15) P.10 印刷用
神田の音・神田の耳(9)

「とっておきのやぶそば」という話

中村正人

 鬱陶しい梅雨も明け、さて本格的な夏を迎えるぞという頃になると、今年も僕の住む街にはいろんな国から若いパックパッカーたちがやって来る。それはこの街に外国人ツーリストのための小さな安宿があるせいなのだが、毎日乗り降りする駅の改札口あたりにも、目立って彼らの気ままなリゾートライフ(?)が見受けられる。通勤電車に揺られていくはずの僕も、そんな彼らを見ていると思わず声を掛けたくなる。

—Hi! Where are you from, and to next?—
(どこから来たの そしてどちらへ?)

 もちろん僕はどこの国でもいるターミナル付近に出没する外国人相手のいかがわしいガイドではない。ただ彼らとお茶を飲み話し込んでいると(そうなるためには彼らと同じ開かれた心を常に持ち合わせていなければならないはずだ)、何だか自分もツーリストに戻ったような幸せな錯角を味わえるのだ。そして今度の休みにはどこへ行こうかと思いをめぐらせ、まだ見ぬ土地の話を彼らから訊き出し情報交換するのは楽しいものだ。

 さてそれは二年前の夏のことだから、僕も随分とのんびりした学生生活を送っていた頃のこと。ストックホルムから友達のヨハンが二人の女の子を連れて東京に来た。二人ともスエーデンの古い大学町ウプサラに住む学生で、トッポジージョのガールフレンドみたいな印象のグッセと、インゲラだった。なるほどスカンジナビア育ちだけあって彼女は時折ベイルマンに出て来る女優みたいな険しい表情をするけれど、かえって笑わしがいのある女の子だ、と僕は思った。
 彼女たちは乃木坂にあるスカンジナビア航空の支店長だか誰かのマンションに一月ばかり滞在していた。主が休暇でストックホルムに帰っていたのだ。時間だけはたっぷりあるが、所持金の少ない学生旅行はどこの国でも同じこと。僕としても、そんな遠来の客たちを連れて東京を歩くのが愉快でないわけがなかった。代々木公園で日光浴したり、六本木で朝まで騒いだり、時には日光にドライブに出掛けたり…といった変哲のない日々が過ぎていった。
 鎌倉の海で泳いだ後、国立劇場で歌舞伎を見た時はおかしかった。幕が開くと、海ではしゃぎすぎてすっかり疲れてしまったグッセがうとうとし始めた。すると突然大向こうからの掛け声がいっせいに彼女の耳元を襲ったのだ。
 彼女はびっくり仰天。慌てて目を覚ますと座席から滑り落ち、みんなは大爆笑。いったい何が起こったの? という彼女の問いに、彼らは役者の演技を賞賛しているのだ、と僕は笑いながらもちょっぴり謎めかして答えておいた。
 夕刻になってもむし暑さはひかなかったので、夕涼みも兼ねて彼らを淡路町のやぶそばに連れていくことにした。せっかく歌舞伎を見たのだし、さっぱりした和食を味わってみるのも良いと思ったのだ。それに彼女たちはあんな立派な豪邸住まいのくせに(おまけに運転手付きである)、僕が訪ねると台所で生ニンジンを齧っていたり、スパゲッティを茹でていたり…、いつも簡単な食事ですませていたから。
 玄関をくぐり店に一歩足を踏み入れると、注文をよむなめらかな声がにぎやかなお客のおしゃべりをぬって耳に届く。しばらく黙って聞いていると、吸い込まれそうな夢心地だ。さすがに疲れた僕もぼんやりと耳を澄ましていると、インゲラが訊ねた。
—いったい彼女は何を歌っているの?
—違うんだ。注文を奥の調理場に伝えているんだよ。
—へぇ、おもしろいのね。
 彼女は目を輝かせた。
 しばらくして気がつくと、初めに感じられた彼女たちの周囲との異質感が消えていた。二人は随分神妙な面持ちになり、その場に溶け込んでいるようだ。
 周りを見渡すと、まるで小津安二郎の登場人物のような人々が和やかに、ごく自然に、時に声高らかに語り合っていた。母娘と向かいに座った婚約者らしき男性が二人を笑わす弾んだ声、しみじみとそばをすする老夫婦、おちょうしを追加する勤め人たち…。
 何より人の交わすしゃべり声の心地よい店だ、と僕は改めて思った。これは彼女たちがいなければ、案外気づかずにいたことかもしれない。
 食事を済ますと、僕はとっておきのお店に彼らを連れて行ったという満足感で独り悦に入っていた。ただヨハンだけが、せいろの量の少なかったことに不満だった。ああ、悲しきかな。バイキングの末裔ヨハン!

 この話を思い出したのは、先日インゲラから突然結婚式の招待状が届いたからである。手紙には「もちろんあなたがストックホルムに来れないことは承知の上だけれど」と前置きして、「私がジューンブライドになることをあなたが祝福してくれることを信じているわ」と書かれてあった。

 CONGURATURATION! Ingera.

 翌日僕はメッセージカードをポストに放りこんだ。




中村正人 神田サウンドスケープ研究会会員
ページの先頭へ

戻る

ホーム ホーム