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神田資料室

KANDAルネッサンス 3号 (1987.10.01) P.9〜10 印刷用
神田の音・神田の耳(2)

神田川のイヤーウイットネス

中村正人

 谷間の住民は、非情に早起きだった。
 国電の始發が、ボーッと、向岸で汽笛を鳴らす頃には、彼等の誰もが、泉のほとりで、洗顔を済ませ、そのうちの多くは、立ち迷ふ川霧の中に、黒い影を滲ませながら、上の道路へ登っていくのである。


 これは昭和二十五年、朝日新聞に連載され絶大な人気を呼んだ獅子文六「自由学校」の一節です。御茶の水橋下を舞台に多くの戦災者たちが気ままな掘っ立て小屋暮らしを送っていたことを今日想像するのは難しいかもしれません。しかし、この界隈に当時住んでいたという作者の抜群なる描写によって私たちは、神田川辺で展開された人々の営みとざわめきの記憶をありありと甦せることができるのです。
 このように私たちの研究会では、文学者の記述を丹念に想像力豊かに読み返すことによって、神田の音風景の歴史をひもといています。ある地域のサウンドスケープは過去の記憶を織り重ねながら現在の姿を成り立たせていると思うからです。そして、過去のサウンドスケープを掘り起こし再構成するこの作業を、イヤーウイットネス(耳の証人)と呼んでいます。特に私たちにとって、神田を舞台にした小説や神田生まれの文筆家による回想記等はその秀れた手がかりになります。
 ではここで、神田川の耳の証人たちの登場してもらいましょう。

 和泉橋を渡って、林檎や柿や秋の果物の並んだ大きな店の側を曲って、横へ外れると三味線の音(ね)が洩れてゐた。切髪の品のいゝ戸田の婆さんが、孫に長唄を教へてゐるんだと直ぐ気付いた。
(正宗白鳥「毒」明治四十四年)

 其樹蔭に縞の着流の男一人手拭を肩にし後向きに水の流れを眺めている。閑雅の趣自(おのずか)ら画面に溢れ何となく猪牙(ちょき)船の艫声(ろせい)と鴎の鳴く音さへ聞き得るような心地がする。
(永井荷風「日和下駄」大正三年)

 川沿いにはりつくように続く芸者屋と三味線の音の聴こえる花柳界……永井荷風をはじめ多くの文人がそこを訪れ、その世界を見事に描き出しています。私たちは今やその作品を胸をときめかせながら読み耽るばかりです。特に「日和下駄」「牡丹の客」などに描かれる神田川は、息をのむほどにひっそりとした、しかも濃密なサウンドスケープに包まれていたことを知らされます。

 目鏡橋の橋の畔も賑やかであった。今日さうした光景を私は東京の何處に求めることが出来るであらうか。露店、露肆、立ちん坊、土方、さういうものが橋の袂(たもと)に一杯に集まってゐて、橋畔にある共同便所の繁昌は一通りではなく、五人も六人も待たなければ用を足すことが出来ないという風であった。
(田山花袋「東京の三十年」大正六年)

 ここには具体的な「音」が言及されてはいません。しかし、感性豊かに読み込んでみれば、橋の上の賑やかな音風景がきこえてきます。橋は元来交通の要地で人馬や車の往来が盛んな群衆の行き交う空間でした。また橋詰には多くの露店が並んでいたのです。
 それでは神田川の周辺、万世橋に近い街角にはどんな音が響いていたのでしょうか。

 須田町で電車を下りて、それから両側に長くつゞくアスハルトを敷いた路、そこを私は長い間歩いた。
 つまり三十年前に、旭屋やケレー酒を売る家の大きな外国風の建物がめづらしく街頭に聞えてゐた路である。ガラクタ馬車がラッパを鳴らして泥濘(でいねい)の中を通って行った路である。

(田山花袋「東京の三十年」大正六年)

 このように私たちは過去の記述を頼りに、かつて存在したであろうサウンドスケープを、その断片を綴(つづ)り合わせることによって再構築し、現在に重ねあわせてみるのです。しかしそれには著名な文筆家の筆だけでは不充分です。日々の生活に密着し密かに耳を澄ませてきた人々こそが時代の移り変わりを的確に捉えていると信じるからです。
 研究会ではそうした方々のプライベートな記録が重要なヒントを与えてくれるものと考えています。もし古い日記や手紙等で過去の音の状況を伝えているようなものがおありでしたら、是非ともお教え願えれば幸いです。御協力のほどよろしくお願いします。おそらく自らの手になる昔の筆跡に目を通す時、懐しいあなた自身の音風景を甦せることができるのではないでしょうか。




中村正人 神田サウンドスケープ研究会会員、学生
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